佐々木只三郎とは?坂本龍馬暗殺の実行者とされる剣客を解説

坂本龍馬を斬ったのは誰か。この問いへの最有力の答えとされるのが、佐々木只三郎です。
目次
佐々木只三郎とは何をした人か
只三郎は、幕府の京都見廻組の幹部でした。
京都見廻組は、新選組とよく比較されます。どちらも幕末の京都で治安維持を担った組織ですが、新選組が浪士中心の集団だったのに対し、見廻組は幕臣(旗本・御家人)で編成された正規の組織でした。身分の上では、見廻組のほうが「本流」です。
その見廻組の幹部として、只三郎は京都の取り締まりにあたりました。そして――近江屋事件、すなわち坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺を実行したとされる人物です。
天保 4 年(1833 年)、会津藩の系統を引く家に生まれます。
佐々木只三郎の肖像

佐々木只三郎が「小太刀日本一」と呼ばれた剣
只三郎は、剣の達人として知られました。
彼が修めたのは、短い刀を用いる小太刀です。通常の刀より扱いの難しいこの武器で、「小太刀では日本一」とまで称されたと伝えられます。
近江屋事件で龍馬が一瞬のうちに斬られたことは、手練れの仕業であることを示しています。狭い室内で、油断していたとはいえ剣客である龍馬を、応戦の間も与えず倒した。その手際が、只三郎の関与を裏づける根拠の一つとされます。
佐々木只三郎と近江屋事件
慶応 3 年 11 月(西暦では 1867 年 12 月)、京都・近江屋の二階で、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われました。
龍馬はその場で、中岡も数日後に、命を落とします。維新の目前で、二人の志士が消えたのです。
この暗殺の実行者については、長く謎とされてきました。新選組の犯行とする説が有力な時期もありました。
しかし、生き残った見廻組の隊士が後年に語った証言などから、京都見廻組による犯行であり、その現場を指揮したのが佐々木只三郎だったとする見方が、現在では最も有力とされています。
ただし注意すべき点があります。この結論は状況証拠と後年の証言に基づくもので、動かぬ物証があるわけではありません。誰が斬ったのかをめぐる議論は、細部では今も続いています。
坂本龍馬はなぜ狙われたのか
見廻組が龍馬を狙った理由は、幕府にとって龍馬が危険な人物だったからです。
龍馬は倒幕へ向かう動きの調整役であり、薩長同盟の成立にも関わりました。幕府側から見れば、取り締まるべき要注意人物です。加えて、以前に伏見の寺田屋で幕吏に手向かった一件もありました。
見廻組にとって龍馬は、職務上の標的だったのです。私怨や特別な事情ではなく、幕府の治安組織が、幕府にとって危険な人物を排除した――近江屋事件の骨格は、そう理解されています。
佐々木只三郎の最期と鳥羽伏見
慶応 4 年(1868 年)1 月、鳥羽伏見の戦いが起こります。
只三郎は見廻組を率いて、旧幕府軍として戦いました。しかし新政府軍の銃砲の前に敗れ、この戦いで銃弾を受けて重傷を負います。
大坂へ退いたのち、傷が元で死去しました。満 34 歳(数えで 36)です。
龍馬を斬ったとされる男は、龍馬の死から一か月余りで、自らも戦場に倒れたことになります。近江屋事件のわずか二か月後のことでした。
佐々木只三郎はどう語られてきたか
只三郎は、龍馬の物語のなかで「敵役」として登場することが多い人物です。
しかし彼自身の視点に立てば、幕府の正規の治安組織の幹部として、職務を遂行しただけとも言えます。龍馬を英雄とする物語が広まるほど、それを斬った只三郎の像は暗く塗られてきました。
歴史の勝者が誰かによって、同じ行為の評価は反転します。 只三郎という人物は、その一例です。彼が仕えた幕府が勝っていれば、龍馬こそが「取り締まられた不逞の徒」として記憶されていたかもしれません。
佐々木只三郎の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1833 年 | 会津藩の系統を引く家に生まれる |
| 1860 年代 | 幕府の京都見廻組の幹部となる |
| 1867 年 12 月 | 近江屋事件。坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺を指揮したとされる |
| 1868 年 1 月 | 鳥羽伏見の戦いで重傷を負う |
| 1868 年 | 傷が元で死去。満 34 歳 |
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