幕末の偉人

清河八郎とは?新選組を生んでしまった浪士組の首謀者

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清河八郎とは?新選組を生んでしまった浪士組の首謀者
清河八郎 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

新選組を作ったのは、実は幕府ではありません。 清河八郎という一人の浪士が仕掛けた企てが、結果としてあの隊を生みました。そして本人は、その半年後に斬られています。

目次

清河八郎とは何をした人か

清河八郎は、出羽庄内(現在の山形県)出身の志士です。剣も学問も修めた上で、江戸で塾を開き、尊王攘夷運動の中心にいました。

彼の生涯で最も大きい一手が、浪士組です。

幕府に「将軍上洛の警護のため、浪士を集めて隊を作れ」と建議し、実現させました。 ところが上洛した直後、京都で隊士を集めて「この隊は幕府ではなく朝廷のための兵である」と宣言します。

驚いた幕府は隊を江戸へ呼び戻しました。しかし京都に残った者たちがいました。 それが近藤勇芹沢鴨らで、のちの新選組です。

文政 13 年 10 月 10 日(1830 年 11 月 24 日)に生まれ、文久 3 年 4 月 13 日(1863 年 5 月 30 日)に暗殺されました。

清河八郎が江戸で塾を開くまで

清河は、出羽国田川郡清川村(現在の山形県庄内町)の郷士・斎藤家の生まれです。幼名は斎藤元司、名は正明といいました。家は酒造も営む有力な家で、学問に金を出せる家でした。

江戸に出た清河は儒学を学び、同時に北辰一刀流の千葉周作の玄武館で剣を修めます。 学問と剣の両方を修めた上で、神田お玉ヶ池に清河塾を開きました。

万延元年(1860 年)には虎尾の会という尊王攘夷の結社を作ります。集まった十五人の中には、若き日の山岡鉄舟がいました。

文久元年(1861 年)、江戸で人を斬ったことから幕吏に追われる身となり、西国を巡って各地の志士と交わります。この逃亡の年に、彼は全国の尊攘派の人脈を手に入れました。

清河八郎の浪士組という仕掛け

文久 2 年(1862 年)末、清河は幕臣を通じて幕府に建議します。将軍徳川家茂の上洛にあたり、警護のための浪士の隊を作るべきだ、と。

幕府はこれを容れました。募集に応じたのは二百三十人余り。身分を問わない募集だったため、近藤勇ら試衛館の面々のように、藩に属さない剣客が大量に入っています。

浪士組は文久 3 年 2 月に江戸を発ち、2 月 23 日(1863 年 4 月 10 日)に京都の壬生へ着きました。

そしてその夜、清河は隊士を集めて演説します。「我々は幕府の兵ではない。攘夷を実行するための、朝廷の兵である」。 朝廷への建白書も用意していました。

幕府が金を出して集めた部隊が、到着した瞬間に朝廷の兵に化けたことになります。幕府は即座に浪士組を江戸へ呼び戻しました。

新選組は清河八郎の一手から生まれた

江戸へ戻った浪士組は、江戸市中の警備にあたる新徴組となります。庄内藩の指揮下に入りました。

しかし、京都に残った者たちがいます。 近藤勇土方歳三沖田総司ら試衛館の一派と、芹沢鴨らの水戸系。彼らは会津藩松平容保の預かりとなり、壬生浪士組を名乗ります。これが新選組の始まりです。

清河が裏返さなければ、新選組は生まれていません。 尊王攘夷の側に立った男の企てが、尊攘派を最も多く斬る隊を作った——幕末で最も皮肉な因果関係の一つです。

清河八郎の最期

企ての規模が大きすぎたぶん、幕府側から見れば清河は放置できない存在になりました。

文久 3 年 4 月 13 日(1863 年 5 月 30 日)、江戸麻布の一ノ橋で、清河は佐々木只三郎ら数名に襲われ、斬られます。満 32 歳でした(享年は数えの 34)。

討ち手の佐々木只三郎は幕府の京都見廻組を率いた剣客で、のちに坂本龍馬暗殺の実行者に擬せられる人物です。

墓は東京都文京区の伝通院にあります。郷里の山形県庄内町には、彼を祀る清河神社が建てられました。

清河八郎はなぜ策士と呼ばれるのか

清河は、しばしば「策士」と評されます。志のためなら幕府すら道具にした、という意味です。

同時代の評判も割れていました。才を認める者と、信用しない者に分かれます。 浪士組の隊士のなかにも、京都で裏返された時点で彼を見限った者がいました。

ただ、彼の企てが動かした量は大きい。浪士組がなければ新選組も新徴組もなく、池田屋事件の顔ぶれも変わっていました。幕末は、こういう「一人の企て」が制度を動かせてしまう時代でした。

清河八郎の年表

出来事
1830 年 11 月 24 日出羽国清川村の郷士・斎藤家に生まれる(文政 13 年 10 月 10 日)
1850 年代江戸で儒学を学び、千葉周作の玄武館で剣を修める。清河塾を開く
1860 年虎尾の会を結成(山岡鉄舟ら十五人)
1861 年江戸で人を斬り、追われて西国を巡る
1862 年幕府に浪士組の結成を建議する
1863 年 4 月 10 日浪士組が京都壬生に到着(文久 3 年 2 月 23 日)。清河が朝廷の兵と宣言する
1863 年浪士組は江戸へ帰還し新徴組へ。京都残留組が壬生浪士組(のちの新選組)となる
1863 年 5 月 30 日麻布一ノ橋で佐々木只三郎らに斬られる(文久 3 年 4 月 13 日)。満 32 歳

彼の企てが生んだ隊については新選組、盟友だった人物は山岡鉄舟、討ち手は佐々木只三郎です。

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