清河八郎とは?新選組を生んでしまった浪士組の首謀者

新選組を作ったのは、実は幕府ではありません。 清河八郎という一人の浪士が仕掛けた企てが、結果としてあの隊を生みました。そして本人は、その半年後に斬られています。
目次
清河八郎とは何をした人か
清河八郎は、出羽庄内(現在の山形県)出身の志士です。剣も学問も修めた上で、江戸で塾を開き、尊王攘夷運動の中心にいました。
彼の生涯で最も大きい一手が、浪士組です。
幕府に「将軍上洛の警護のため、浪士を集めて隊を作れ」と建議し、実現させました。 ところが上洛した直後、京都で隊士を集めて「この隊は幕府ではなく朝廷のための兵である」と宣言します。
驚いた幕府は隊を江戸へ呼び戻しました。しかし京都に残った者たちがいました。 それが近藤勇・芹沢鴨らで、のちの新選組です。
文政 13 年 10 月 10 日(1830 年 11 月 24 日)に生まれ、文久 3 年 4 月 13 日(1863 年 5 月 30 日)に暗殺されました。
清河八郎の肖像

清河八郎が江戸で塾を開くまで
清河は、出羽国田川郡清川村(現在の山形県庄内町)の郷士・斎藤家の生まれです。幼名は斎藤元司、名は正明といいました。家は酒造も営む有力な家で、学問に金を出せる家でした。
江戸に出た清河は儒学を学び、同時に北辰一刀流の千葉周作の玄武館で剣を修めます。 学問と剣の両方を修めた上で、神田お玉ヶ池に清河塾を開きました。
万延元年(1860 年)には虎尾の会という尊王攘夷の結社を作ります。集まった十五人の中には、若き日の山岡鉄舟がいました。
文久元年(1861 年)、江戸で人を斬ったことから幕吏に追われる身となり、西国を巡って各地の志士と交わります。この逃亡の年に、彼は全国の尊攘派の人脈を手に入れました。
清河八郎の浪士組という仕掛け
文久 2 年(1862 年)末、清河は幕臣を通じて幕府に建議します。将軍徳川家茂の上洛にあたり、警護のための浪士の隊を作るべきだ、と。
幕府はこれを容れました。募集に応じたのは二百三十人余り。身分を問わない募集だったため、近藤勇ら試衛館の面々のように、藩に属さない剣客が大量に入っています。
浪士組は文久 3 年 2 月に江戸を発ち、2 月 23 日(1863 年 4 月 10 日)に京都の壬生へ着きました。
そしてその夜、清河は隊士を集めて演説します。「我々は幕府の兵ではない。攘夷を実行するための、朝廷の兵である」。 朝廷への建白書も用意していました。
幕府が金を出して集めた部隊が、到着した瞬間に朝廷の兵に化けたことになります。幕府は即座に浪士組を江戸へ呼び戻しました。
新選組は清河八郎の一手から生まれた
江戸へ戻った浪士組は、江戸市中の警備にあたる新徴組となります。庄内藩の指揮下に入りました。
しかし、京都に残った者たちがいます。 近藤勇・土方歳三・沖田総司ら試衛館の一派と、芹沢鴨らの水戸系。彼らは会津藩松平容保の預かりとなり、壬生浪士組を名乗ります。これが新選組の始まりです。
清河が裏返さなければ、新選組は生まれていません。 尊王攘夷の側に立った男の企てが、尊攘派を最も多く斬る隊を作った——幕末で最も皮肉な因果関係の一つです。
清河八郎の最期
企ての規模が大きすぎたぶん、幕府側から見れば清河は放置できない存在になりました。
文久 3 年 4 月 13 日(1863 年 5 月 30 日)、江戸麻布の一ノ橋で、清河は佐々木只三郎ら数名に襲われ、斬られます。満 32 歳でした(享年は数えの 34)。
討ち手の佐々木只三郎は幕府の京都見廻組を率いた剣客で、のちに坂本龍馬暗殺の実行者に擬せられる人物です。
墓は東京都文京区の伝通院にあります。郷里の山形県庄内町には、彼を祀る清河神社が建てられました。
清河八郎はなぜ策士と呼ばれるのか
清河は、しばしば「策士」と評されます。志のためなら幕府すら道具にした、という意味です。
同時代の評判も割れていました。才を認める者と、信用しない者に分かれます。 浪士組の隊士のなかにも、京都で裏返された時点で彼を見限った者がいました。
ただ、彼の企てが動かした量は大きい。浪士組がなければ新選組も新徴組もなく、池田屋事件の顔ぶれも変わっていました。幕末は、こういう「一人の企て」が制度を動かせてしまう時代でした。
清河八郎の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1830 年 11 月 24 日 | 出羽国清川村の郷士・斎藤家に生まれる(文政 13 年 10 月 10 日) |
| 1850 年代 | 江戸で儒学を学び、千葉周作の玄武館で剣を修める。清河塾を開く |
| 1860 年 | 虎尾の会を結成(山岡鉄舟ら十五人) |
| 1861 年 | 江戸で人を斬り、追われて西国を巡る |
| 1862 年 | 幕府に浪士組の結成を建議する |
| 1863 年 4 月 10 日 | 浪士組が京都壬生に到着(文久 3 年 2 月 23 日)。清河が朝廷の兵と宣言する |
| 1863 年 | 浪士組は江戸へ帰還し新徴組へ。京都残留組が壬生浪士組(のちの新選組)となる |
| 1863 年 5 月 30 日 | 麻布一ノ橋で佐々木只三郎らに斬られる(文久 3 年 4 月 13 日)。満 32 歳 |
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