幕末の偉人

千葉周作とは?北辰一刀流を興し剣術を合理化した剣豪の生涯

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千葉周作とは?北辰一刀流を興し剣術を合理化した剣豪の生涯

剣術を「才能の世界」から「教えられる技術」に変えた人がいます。千葉周作。北辰一刀流の創始者です。

目次

千葉周作とは何をした人か

周作は、江戸時代後期の剣客であり、北辰一刀流の開祖です。

その功績は三つに分かれます。

第一に、流派を興したこと。 父から受けた北辰夢想流と、浅利義信に学んだ小野派一刀流を合わせ、北辰一刀流を立てました。

第二に、江戸最大級の道場を作ったこと。 神田お玉ヶ池の玄武館は、幕末の剣術界の中心になります。

第三に、剣術の教え方を変えたこと。 これが最も大きい功績です。彼は稽古を体系化し、修行に必要な年数を劇的に縮めました。

寛政 6 年(1794 年)に生まれ、安政 2 年 12 月(西暦では 1856 年 1 月)に没しています。

千葉周作が開いた道場・玄武館

周作は文政 5 年(1822 年)、日本橋品川町に道場玄武館を開きました。文政 8 年(1825 年)の秋、これを神田お玉ヶ池へ移します。

玄武館は、幕末の江戸を代表する道場になりました。

当時の江戸では、三つの道場が並び称されています。

  • 玄武館(千葉周作)——「技の千葉
  • 練兵館(斎藤弥九郎)——「力の斎藤
  • 士学館(桃井春蔵)——「位の桃井

江戸三大道場です。この三つは互いに交流し、時に他流試合で腕を競いました。

玄武館からは、山南敬助伊東甲子太郎藤堂平助といった、幕末を動かす剣士が出ています。

「技の千葉」と呼ばれた千葉周作の剣術

周作の最大の仕事は、教え方です。

それまでの剣術は、流派ごとに秘伝があり、免許を得るのに十年、二十年かかるのが普通でした。稽古の内容は師の裁量に委ねられ、なぜその動きをするのかは説明されないことも多かったのです。

周作はこれを変えました。

技を整理し、順序をつけて並べました。 どの技をどの段階で習うかを明確にし、上達の道筋を見える形にしたのです。

技に理屈をつけて説明しました。 「そういうものだ」ではなく、「こう動くとこうなるから」と教えました。

竹刀と防具を使った打ち込み稽古を軸に据えました。 実際に打ち合うことで、上達が早く、また安全でもありました。

結果として、それまで十年かかった段階に、数年で到達できるようになったと伝えられます。

これは、剣術が「限られた者の技」から「学べる技術」になったということです。幕末に剣術人口が爆発的に増え、道場が身分を越えた交流の場になった背景には、この合理化がありました。

千葉周作と水戸藩の縁

天保 12 年(1841 年)、周作は水戸藩主・徳川斉昭に招かれ、水戸へ赴きます。

斉昭は藩校弘道館を作り、文武の教育に力を入れていました。周作はここで北辰一刀流を伝えます。水戸に北辰一刀流が根づいたのは、このときの縁によるものです。

北辰一刀流は現在も、水戸市の指定無形文化財として保存団体に受け継がれています。

坂本龍馬と千葉道場の関係

坂本龍馬が北辰一刀流を学んだことはよく知られています。

ただし、龍馬が通ったのはお玉ヶ池の玄武館ではなく、周作の弟・千葉定吉が桶町に開いた道場です。しばしば混同されますが、別の道場でした。「千葉道場」と言った場合、この二つのどちらを指すのかで意味が変わります。

いずれにせよ、北辰一刀流という同じ流派の中で、幕末の主要人物が交差していたことは確かです。

千葉周作の最期と墓

周作は、安政 2 年 12 月 10 日に没しました。和暦では安政 2 年ですが、西暦に直すと 1856 年 1 月 17 日にあたります。資料によって「1855 年没」と「1856 年没」の両方が見られるのは、この暦のずれによるものです。

享年は数えで 63。生まれた月日が確かでないため、満年齢は 61 か 62 になります。

墓は東京にあり、玄武館の系譜は弟子たちが受け継ぎました。周作の死からわずか十数年で、彼が教えた剣士たちは新選組と倒幕派に分かれて斬り合うことになります。

千葉周作の年表

出来事
1794 年生まれる
1810 年代浅利義信に小野派一刀流を学ぶ。のち北辰一刀流を興す
1822 年日本橋品川町に道場玄武館を開く
1825 年玄武館を神田お玉ヶ池へ移転
1841 年水戸藩主・徳川斉昭に招かれ、水戸で北辰一刀流を伝える
1856 年 1 月没(和暦では安政 2 年 12 月)。享年は数えで 63

道場そのものは江戸の剣術道場、門下から出た剣士は山南敬助伊東甲子太郎藤堂平助で扱っています。

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