幕末の偉人

山岡鉄舟とは?西郷隆盛に単身談判した幕末三舟の一人

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山岡鉄舟とは?西郷隆盛に単身談判した幕末三舟の一人
山岡鉄舟 肖像写真(幕末〜明治初期) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

敵軍の陣中に、一人で歩いて入っていった男がいます。山岡鉄舟。西郷隆盛と直接向き合い、江戸を焼かせずに済ませた人物です。

目次

山岡鉄舟とは何をした人か

鉄舟は、幕臣であり、剣術家であり、明治天皇の侍従です。本名は小野鉄太郎。

その働きは三つに分かれます。

第一に、西郷隆盛と談判したこと。 慶応 4 年(1868 年)、駿府へ単身乗り込み、徳川慶喜の助命と徳川家の存続について西郷から譲歩を引き出しました。江戸城無血開城の下交渉です。

第二に、剣禅一致を説いたこと。 無刀流を開き、剣の修行を精神の修行と一体のものとして扱いました。

第三に、明治天皇の侍従を務めたこと。 十年にわたり天皇の側近くにありました。

天保 7 年(1836 年)に生まれ、明治 21 年(1888 年)7 月 19 日に没しました。

山岡鉄舟の生い立ちと飛騨から江戸へ

鉄舟は、江戸で旗本・小野朝右衛門の子として生まれました。名は小野鉄太郎です。父が飛騨郡代に就いたため、幼少期を高山で過ごしています。

十代で江戸へ出て剣を学びます。千葉周作の玄武館でも修行し、北辰一刀流を修めました。

そして山岡静山に槍を学びます。静山は槍の天才と呼ばれた人物で、高橋泥舟の兄です。

安政 2 年(1855 年)、静山が急死します。鉄太郎は泥舟の妹・英子を妻に迎え、山岡家を継いで山岡姓を名乗りました。これが山岡鉄舟です。

高橋泥舟は義兄にあたり、二人はその後の生涯をともに動きます。

山岡鉄舟の駿府への単身行

慶応 4 年 3 月(西暦では 1868 年 4 月)、新政府軍が江戸に迫っていました。

徳川慶喜は上野で恭順の姿勢を取っていましたが、新政府軍の側に、それを信じる理由はありません。江戸城総攻撃の期日が決まっていました。

誰かが、敵軍の総司令官と直接話をつけなければならない。

義兄の高橋泥舟は慶喜のそばを離れられませんでした。そこで泥舟が推したのが、鉄舟でした。

鉄舟は駿府(現在の静岡市)へ向かい、西郷隆盛に面会します。

山岡鉄舟が西郷隆盛を折らせた一言

西郷は、降伏の条件を示しました。江戸城の引き渡し、軍艦と武器の引き渡し、そして——慶喜を備前藩に預けることです。

鉄舟はこの一条を拒みました。

彼の論法は、感情ではなく立場の話でした。「主君を他家に引き渡すことは、家臣としてできない。もしあなたが島津公について同じことを言われたら、承知するのか」——おおむね、こうした趣旨のことを述べたと伝えられます。

西郷は、この条件を撤回しました。

言葉の正確な形は伝承によって異なります。しかし鉄舟の交渉によって慶喜の身柄に関する条件が変わり、その上で勝海舟と西郷の会談が行われた——という順序は、広く認められています。

江戸城は戦火を受けずに明け渡されました。

この交渉で鉄舟が持っていたものは、地位でも兵力でもありません。一人で敵陣に入るという行為と、退かない態度だけでした。

山岡鉄舟の剣禅一致と無刀流

維新後、鉄舟は静岡藩に仕え、のち茨城県参事、伊万里県令などを務めます。

そして明治 5 年(1872 年)から、明治天皇の侍従となりました。在任は十年にわたります。

同時に彼が打ち込んだのが、です。

鉄舟が開いたのは無刀流でした。名前のとおり、「刀を無くす」という考え方です。

技で相手を斬るのではなく、構えたときに勝負が決まっている状態を目指す。そのためには技術ではなく、心の在り方を鍛えなければならない——剣禅一致の思想です。

彼は禅を深く修めました。剣の修行と座禅を、同じことの表と裏として扱ったわけです。道場は春風館と名づけられています。

山岡鉄舟の最期と全生庵

明治 16 年(1883 年)、鉄舟は東京の谷中に全生庵という寺を建立しました。

目的は、幕末から明治維新にかけて国事に殉じた人々を弔うことです。全生庵の建立趣旨は戊辰戦争の戦没者に限定されず、時代の転換のなかで死んだ人々を対象にしています。

明治 21 年(1888 年)7 月 19 日、鉄舟は胃の病で没します。満 51 歳です。

座禅を組んだ姿勢のまま息を引き取ったと伝えられます。

墓は全生庵にあります。自分が建てた、時代に殉じた者を弔う寺です。

山岡鉄舟の年表

出来事
1836 年江戸で旗本・小野朝右衛門の子として生まれる(小野鉄太郎)。父の飛騨郡代就任で高山へ
1850 年代江戸で剣を学び、千葉周作の玄武館でも修行
1855 年山岡静山の急死後、その妹を妻として山岡家を継ぐ
1868 年 4 月 1 日駿府へ単身乗り込み、西郷隆盛と談判(慶応 4 年 3 月 9 日)
1868 年 5 月 3 日江戸城が無血で明け渡される(慶応 4 年 4 月 11 日)
1872 年明治天皇の侍従となる(以後十年)
明治期無刀流を開き、春風館で剣禅一致を説く
1883 年谷中に全生庵を建立し、国事に殉じた人々を弔う
1888 年没。満 51 歳

同じ「三舟」は勝海舟高橋泥舟、談判の相手は西郷隆盛です。

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