山内容堂とは?鯨海酔侯と呼ばれた土佐藩主の生涯と大政奉還

自分のことを「鯨の海の、酔っぱらいの殿様」と名乗った大名がいます。土佐藩主・山内容堂。徳川慶喜に大政奉還を勧めた人物です。
目次
山内容堂とは何をした人か
容堂は、土佐藩(現在の高知県)の第 15 代藩主です。本名は山内豊信、容堂は号です。
その働きは、大きく三つに分けられます。
第一に、藩政の改革者として。 吉田東洋という人物を登用し、土佐藩の財政と軍制を立て直そうとしました。
第二に、尊王攘夷への弾圧者として。 武市半平太が率いた土佐勤王党を徹底的に取り締まり、武市に切腹を命じています。
第三に、大政奉還の建白者として。 慶応 3 年(1867 年)、徳川慶喜に政権を朝廷へ返すよう建白しました。幕末最大の政治決断の、直接のきっかけを作ったのが容堂です。
文政 10 年(1827 年)、土佐藩主家の分家に生まれました。
山内容堂が分家から藩主になるまで
容堂は、はじめから藩主になる立場ではありませんでした。藩主家の分家(南邸山内家)の子として生まれ、屋敷で書物を読み、酒を飲んでいた青年です。
ところが嘉永元年(1848 年)、藩主が急死します。他に適当な後継ぎがおらず、分家から容堂が引き出されて第 15 代藩主となりました。
この「思いがけず藩主になった」という出自は、彼の生涯についてまわります。土佐藩には、関ヶ原以来の上士(山内家が持ち込んだ家臣)と郷士(旧領主・長宗我部の遺臣の系譜)という厳しい身分の壁がありました。容堂は上士の側に立ち続けます。
藩主となった容堂は、下級身分の出である吉田東洋を抜擢して藩政改革を進めました。この東洋の私塾からは、のちに大政奉還を献策する後藤象二郎や、三菱を興す岩崎弥太郎が出ています。
山内容堂の号「鯨海酔侯」と酒
容堂を語るとき、必ず出てくるのが酒です。
彼は自らを「鯨海酔侯」と号しました。鯨の泳ぐ海(=土佐沖)の、酔っぱらいの侯という意味です。大名が自分を酔っ払いと名乗るのは、それだけで相当に変わっています。
詩を作り、書を能くし、議論を好みました。頭は切れるが、酒が入ると止まらない——同時代の記録に残る容堂像は、おおむねこの一点で一致しています。
そして彼は、松平春嶽(福井)・伊達宗城(宇和島)・島津斉彬(薩摩)とともに「幕末の四賢侯」と並び称されました。開明的で、意見を持ち、幕政に口を出す藩主たちです。
山内容堂と安政の大獄
将軍の後継ぎをめぐる争いで、容堂は一橋慶喜を推す側に立ちました。しかし勝ったのは大老・井伊直弼です。
安政 6 年(1859 年)、容堂は隠居させられ、謹慎を命じられます。安政の大獄の余波でした。藩主の座を降りてもなお、彼は土佐の実権を握り続けますが、この数年の空白のあいだに、藩の中では別の力が育っていました。
山内容堂による土佐勤王党の弾圧
容堂が動けずにいるあいだ、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が藩論を握ります。文久 2 年(1862 年)、彼らは容堂の腹心・吉田東洋を暗殺しました。
やがて京都の政局が変わり、容堂は実権を取り戻します。そして勤王党への報復に取りかかりました。
武市半平太は投獄され、長い取り調べの末に切腹を命じられます。慶応元年閏 5 月(西暦では 1865 年 7 月)のことでした。岡田以蔵ら党員も処刑されています。
容堂は、尊王の志そのものを否定したのではありません。否定したのは、下級武士が藩の意思を勝手に決めることでした。彼は最後まで「藩は藩主が決める」人だったのです。
山内容堂と大政奉還の建白
慶応 3 年(1867 年)、その容堂が歴史を動かします。
坂本龍馬の構想を受けた後藤象二郎が、政権を朝廷に返上させるという案を容堂に説きました。武力で幕府を倒せば内戦になる。ならば徳川自身に返上させればよい、という考えです。
容堂はこれを容れ、慶応 3 年 10 月、徳川慶喜に大政奉還を建白しました。そして同月 14 日(西暦では 1867 年 11 月 9 日)、慶喜は実際に政権返上を朝廷へ願い出ます。大政奉還です。
ただし、これで幕府が廃止されたわけではありません。徳川家は領地も兵も保ったままで、幕府の廃止が宣言されるのは二か月後の王政復古の大号令です。
討幕の密勅が薩長に下ろうとしていた、その直前でした。容堂の建白は、薩長同盟による武力討幕の機先を制した形になります。
山内容堂の小御所会議での抵抗
しかし、それで終わりませんでした。
同年 12 月 9 日(西暦では 1868 年 1 月 3 日)、王政復古の大号令が出され、その夜に小御所会議が開かれます。議題は、慶喜から官位と領地を取り上げるかどうか。
容堂は激しく反対しました。当事者である慶喜を呼びもせずに処分を決めるのはおかしい、と主張したのです。酒も入っていたと伝えられます。
これに対し岩倉具視は、その決定は天皇自身の意思によるものだとして容堂を退けました。会議は薩摩側の主張どおりに決し、まもなく戊辰戦争が始まります。
平和のうちに徳川を軟着陸させるという容堂の構想は、ここで潰えました。
山内容堂の最期と墓
維新後、容堂は新政府の役職に就きますが、ほどなく辞めています。あとは詩と酒の日々でした。
明治 5 年(1872 年)に没します。満 44 歳でした。晩年まで酒を手放さなかったと伝えられます。
墓は東京・品川の大井公園にあります。土佐ではなく、江戸の山内家下屋敷の跡地です。参勤交代で通った江戸に、彼は残りました。
山内容堂の年表
あわせて読みたい

阿部正弘とは?黒船に諸大名の意見を求めた老中首座の生涯
ペリー来航のとき、幕府の最高責任者だったのが老中首座・阿部正弘です。前例を破って諸大名に意見を求め、勝海舟らを登用し、三十代で世を去った政治家の生涯を史実に沿って解説します。

有村次左衛門とは?桜田門外の変で井伊直弼を討った薩摩藩士
桜田門外の変で大老・井伊直弼を討ち取ったのは、十八人の襲撃者のうちただ一人の薩摩藩士、有村次左衛門でした。二十代前半で自刃したその短い生涯を史実に沿って解説します。

千葉周作とは?北辰一刀流を興し剣術を合理化した剣豪の生涯
玄武館を開き「技の千葉」と称された北辰一刀流の創始者・千葉周作。修行年数を大幅に縮めた合理的な指導法で幕末最大の道場を築いた剣豪の生涯を史実に沿って解説します。
