幕末の偉人

山内容堂とは?鯨海酔侯と呼ばれた土佐藩主の生涯と大政奉還

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山内容堂とは?鯨海酔侯と呼ばれた土佐藩主の生涯と大政奉還
山内容堂 肖像(1827〜1872) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

自分のことを「鯨の海の、酔っぱらいの殿様」と名乗った大名がいます。土佐藩主・山内容堂。徳川慶喜に大政奉還を勧めた人物です。

目次

山内容堂とは何をした人か

容堂は、土佐藩(現在の高知県)の第 15 代藩主です。本名は山内豊信、容堂は号です。

その働きは、大きく三つに分けられます。

第一に、藩政の改革者として。 吉田東洋という人物を登用し、土佐藩の財政と軍制を立て直そうとしました。

第二に、尊王攘夷への弾圧者として。 武市半平太が率いた土佐勤王党を徹底的に取り締まり、武市に切腹を命じています。

第三に、大政奉還の建白者として。 慶応 3 年(1867 年)、徳川慶喜に政権を朝廷へ返すよう建白しました。幕末最大の政治決断の、直接のきっかけを作ったのが容堂です。

文政 10 年(1827 年)、土佐藩主家の分家に生まれました。

山内容堂が分家から藩主になるまで

容堂は、はじめから藩主になる立場ではありませんでした。藩主家の分家(南邸山内家)の子として生まれ、屋敷で書物を読み、酒を飲んでいた青年です。

ところが嘉永元年(1848 年)、藩主が急死します。他に適当な後継ぎがおらず、分家から容堂が引き出されて第 15 代藩主となりました。

この「思いがけず藩主になった」という出自は、彼の生涯についてまわります。土佐藩には、関ヶ原以来の上士(山内家が持ち込んだ家臣)と郷士(旧領主・長宗我部の遺臣の系譜)という厳しい身分の壁がありました。容堂は上士の側に立ち続けます。

藩主となった容堂は、下級身分の出である吉田東洋を抜擢して藩政改革を進めました。この東洋の私塾からは、のちに大政奉還を献策する後藤象二郎や、三菱を興す岩崎弥太郎が出ています。

山内容堂の号「鯨海酔侯」と酒

容堂を語るとき、必ず出てくるのが酒です。

彼は自らを「鯨海酔侯」と号しました。鯨の泳ぐ海(=土佐沖)の、酔っぱらいの侯という意味です。大名が自分を酔っ払いと名乗るのは、それだけで相当に変わっています。

詩を作り、書を能くし、議論を好みました。頭は切れるが、酒が入ると止まらない——同時代の記録に残る容堂像は、おおむねこの一点で一致しています。

そして彼は、松平春嶽(福井)・伊達宗城(宇和島)・島津斉彬(薩摩)とともに「幕末の四賢侯」と並び称されました。開明的で、意見を持ち、幕政に口を出す藩主たちです。

山内容堂と安政の大獄

将軍の後継ぎをめぐる争いで、容堂は一橋慶喜を推す側に立ちました。しかし勝ったのは大老・井伊直弼です。

安政 6 年(1859 年)、容堂は隠居させられ、謹慎を命じられます。安政の大獄の余波でした。藩主の座を降りてもなお、彼は土佐の実権を握り続けますが、この数年の空白のあいだに、藩の中では別の力が育っていました。

山内容堂による土佐勤王党の弾圧

容堂が動けずにいるあいだ、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が藩論を握ります。文久 2 年(1862 年)、彼らは容堂の腹心・吉田東洋を暗殺しました。

やがて京都の政局が変わり、容堂は実権を取り戻します。そして勤王党への報復に取りかかりました。

武市半平太は投獄され、長い取り調べの末に切腹を命じられます。慶応元年閏 5 月(西暦では 1865 年 7 月)のことでした。岡田以蔵ら党員も処刑されています。

容堂は、尊王の志そのものを否定したのではありません。否定したのは、下級武士が藩の意思を勝手に決めることでした。彼は最後まで「藩は藩主が決める」人だったのです。

山内容堂と大政奉還の建白

慶応 3 年(1867 年)、その容堂が歴史を動かします。

坂本龍馬の構想を受けた後藤象二郎が、政権を朝廷に返上させるという案を容堂に説きました。武力で幕府を倒せば内戦になる。ならば徳川自身に返上させればよい、という考えです。

容堂はこれを容れ、慶応 3 年 10 月、徳川慶喜に大政奉還を建白しました。そして同月 14 日(西暦では 1867 年 11 月 9 日)、慶喜は実際に政権返上を朝廷へ願い出ます。大政奉還です。

ただし、これで幕府が廃止されたわけではありません。徳川家は領地も兵も保ったままで、幕府の廃止が宣言されるのは二か月後の王政復古の大号令です。

討幕の密勅が薩長に下ろうとしていた、その直前でした。容堂の建白は、薩長同盟による武力討幕の機先を制した形になります。

山内容堂の小御所会議での抵抗

しかし、それで終わりませんでした。

同年 12 月 9 日(西暦では 1868 年 1 月 3 日)、王政復古の大号令が出され、その夜に小御所会議が開かれます。議題は、慶喜から官位と領地を取り上げるかどうか。

容堂は激しく反対しました。当事者である慶喜を呼びもせずに処分を決めるのはおかしい、と主張したのです。酒も入っていたと伝えられます。

これに対し岩倉具視は、その決定は天皇自身の意思によるものだとして容堂を退けました。会議は薩摩側の主張どおりに決し、まもなく戊辰戦争が始まります。

平和のうちに徳川を軟着陸させるという容堂の構想は、ここで潰えました。

山内容堂の最期と墓

維新後、容堂は新政府の役職に就きますが、ほどなく辞めています。あとは詩と酒の日々でした。

明治 5 年(1872 年)に没します。満 44 歳でした。晩年まで酒を手放さなかったと伝えられます。

墓は東京・品川の大井公園にあります。土佐ではなく、江戸の山内家下屋敷の跡地です。参勤交代で通った江戸に、彼は残りました。

山内容堂の年表

出来事
1827 年土佐藩主家の分家に生まれる
1848 年藩主の急死により第 15 代土佐藩主となる
1850 年代吉田東洋を登用し藩政改革。「四賢侯」の一人に数えられる
1859 年安政の大獄の余波で隠居・謹慎
1862 年土佐勤王党が吉田東洋を暗殺
1865 年武市半平太に切腹を命じる
1867 年徳川慶喜大政奉還を建白
1867 年小御所会議で慶喜の処分に反対し、岩倉具視と対立
1872 年没。満 44 歳

土佐の同時代人は坂本龍馬武市半平太中岡慎太郎、政権返上そのものは大政奉還で扱っています。

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