岩倉具視とは?公家から維新を主導した生涯をわかりやすく解説

幕末の政治を動かしたのは、武士だけではありません。朝廷に仕える公家のなかにも、時代を大きく動かした人物がいました。岩倉具視です。彼は宮中を舞台に、倒幕と新国家の樹立を巧みに導いていきました。
目次
岩倉具視の生い立ちと下級公家という出自
岩倉具視は文政8年(1825年)、京の公家の家に生まれました。朝廷の世界で実務に通じ、政治的な才覚を発揮していきます。
黒船来航以後、朝廷の意向が政局を左右するようになると、岩倉は重要な局面で動くようになりました。当初は朝廷と幕府の融和(公武合体)をはかる立場にありましたが、やがて倒幕へと舵を切っていきます。
岩倉具視の写真

岩倉具視は何をした人か(王政復古の大号令)
岩倉の最大の功績は、王政復古の実現に深く関わったことです。1867年、大政奉還に続いて、天皇を中心とする新しい政治体制の樹立が宣言されました。
岩倉は大久保利通ら討幕派の志士と結び、宮中での工作を主導します。公家の立場を活かして朝廷を動かした彼の働きは、新政府の誕生に欠かせないものでした。
岩倉具視が率いた岩倉使節団
維新後、岩倉は新政府の中枢を担いました。なかでも歴史に名高いのが、1871年から欧米を巡った大規模な使節団、岩倉使節団です。
岩倉を団長とし、木戸孝允や大久保ら政府の要人が加わったこの一行は、各国の制度や産業を直接視察しました。そこで得た見聞は、その後の国づくりの方向を大きく左右することになります。
岩倉具視の維新後の功績
帰国後の岩倉は、近代国家の制度づくりに力を尽くしました。急進的な改革と現実とのあいだで難しい調整を担いながら、明治国家の基礎を固めていきます。
公家でありながら時代の転換を主導した岩倉具視は、武士たちとは異なる立場から維新を支えた、特異な存在でした。
岩倉具視のちょんまげと使節団での断髪
岩倉使節団の写真には、有名な1枚があります。洋装の若い随員たちに囲まれて、団長の岩倉ひとりが和装に髷(ちょんまげ)姿で座っている、あの写真です。
岩倉は日本を発つとき、あえて髷と和装のままでした。公家であり、天皇の名代として派遣される立場である以上、日本の正装で臨むべきだという考えによります。訪問先でもその姿を通しました。
これを改めさせたのは、留学中だった息子たちだったと伝えられます。アメリカに滞在していた具定・具経が、その姿では日本が未開の国と見なされてしまうと父に説きました。岩倉はこれを容れ、シカゴで髷を落として洋装に改めます。
このエピソードが象徴的なのは、岩倉という人物が「変われる保守」だったからです。 1000年続いた朝廷の作法のなかで育ちながら、必要と判断すれば自らの外見も原則も改めました。使節団そのものが、まさにその姿勢の産物といえます。
岩倉具視は暗殺されたのか
暗殺は未遂に終わっています。 岩倉は襲撃を受けましたが、生き延びました。
1874年1月14日の夜、赤坂の喰違坂で、征韓論政変に不満を持つ高知県士族らに襲われます。岩倉は負傷しながらも堀へ転げ落ちて難を逃れ、一命をとりとめました。世にいう喰違の変です。
この事件の重みは、当時の空気を伝える点にあります。前年の政変で西郷隆盛らが下野し、士族の不満が政府要人へ向かい始めていました。その最初の標的が岩倉だったのです。 4年後には大久保利通が紀尾井坂で同じ理由により命を落とすことになります。
岩倉が世を去ったのは1883年7月20日、病によるものでした。咽頭の癌とされ、明治天皇が自ら病床を見舞ったことが記録されています。満57歳です。墓は東京都品川区の海晏寺にあります。
岩倉具視はどんな性格だったのか
岩倉を語るうえで外せないのが、下級公家の出身だという事実です。生家の堀河家も、養子に入った岩倉家も家格は高くありません。朝廷という徹底した家格社会において、彼は本来なら政治の中枢に立てる家柄ではありませんでした。
そこから頭角をあらわしたのは、根回しと工作の能力によります。孝明天皇の妹・和宮を将軍家に嫁がせる公武合体策を推し進めたのも岩倉ですが、これが尊王攘夷派の激しい反発を招き、彼は「四奸二嬪」の1人として弾劾されて失脚しました。洛北の岩倉村に退き、5年にわたる蟄居生活を送ります。
しかし岩倉はこの間、隠棲していたわけではありません。村に薩摩の志士らを迎え入れ、政局の情報を集め、倒幕へと立場を転じていきました。公武合体の推進者が、蟄居のあいだに倒幕の策士へと変わったのです。
宮中の作法と権威の使い方を知り尽くしていたことが、王政復古の大号令という「形式」を成立させるうえで決定的でした。武力ではなく手続きによって政権の正統性をつくる。 これが岩倉の果たした役割です。
なお岩倉具視の肖像は、1951年から1984年まで五百円札に用いられていました。
岩倉具視の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1825年 | 公家・堀河家に生まれる。のちに岩倉家の養子となる |
| 1860年 | 和宮降嫁を推進。公武合体をはかるも尊攘派の反発を招く |
| 1862年 | 弾劾され失脚。洛北の岩倉村に蟄居する |
| 1867年 | 復帰し、王政復古の大号令を主導 |
| 1871年 | 岩倉使節団の特命全権大使として欧米へ出発 |
| 1873年 | 帰国。征韓論政変で西郷らの主張を退ける |
| 1874年1月 | 喰違の変で襲撃されるが生還 |
| 1883年7月20日 | 病没。満57歳 |
よくある質問
岩倉具視は何をした人ですか。
下級公家から出て王政復古の大号令を主導し、新政府では岩倉使節団を率いて欧米を視察した公家政治家です。
岩倉具視は暗殺されたのですか。
いいえ。襲撃を受けたことはありますが、明治 16 年(1883 年)に病没しています。
使節団の写真でなぜ髷を結っているのですか。
出発時には和装で髷のままだったためです。渡航先で洋装に改め、断髪しました。
岩倉使節団は何を成果としたのですか。
条約改正の交渉自体は実らなかった一方、欧米の制度と産業を直接見た経験が、その後の国内改革の方向を決めました。
維新を担った人々の群像は、幕末の偉人の各記事でどうぞ。
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