武市半平太とは?土佐勤王党を率いて切腹した男の生涯と子孫

身分の低い者たちをまとめ、藩そのものを動かそうとした男がいます。武市半平太。土佐勤王党を率い、最後は切腹に追い込まれました。
目次
武市半平太とは何をした人か
半平太は、土佐勤王党の盟主でした。
土佐藩は、身分の壁が特に厳しい藩でした。上士と郷士――上級武士と下級武士の間に、越えがたい差があったのです。坂本龍馬も岡田以蔵も、この下の側の出身です。
半平太は、その郷士や下級武士を数百人単位で結集させ、尊王攘夷という旗のもとにまとめました。そして藩の政治を、自分たちの望む方向へ動かそうとします。
下から藩を動かす。 これが半平太の企てでした。
剣と学問
文政 12 年(1829 年)、土佐藩の郷士(白札郷士)の家に生まれます。郷士のなかでは比較的上の格でした。
半平太は剣の達人でした。土佐で小野派一刀流を、江戸では桃井春蔵の士学館で鏡新明智流を学び、塾頭を務めるほどの腕前です。同時に学問にも通じ、人望がありました。
この「剣・学問・人望」の三つが揃っていたことが、彼を勤王党の盟主にしました。多くの若者が、半平太を慕って集まったのです。岡田以蔵も、その剣の腕を半平太に見出された一人でした。
土佐勤王党
文久元年(1861 年)、半平太は土佐勤王党を結成します。
血判を押して加盟した者は、200 人近くにのぼったとされます。尊王攘夷を掲げ、土佐藩を挙げてその方向へ動かすことを目指した組織でした。
半平太は、藩の重役に働きかけ、藩論を動かそうとします。一時は成功しかけました。藩の実権を握っていた重臣・吉田東洋が暗殺され、勤王党に近い勢力が藩政に影響を持つ時期があったのです。
吉田東洋は、藩政改革を進めた開明的な実力者で、公武合体の立場をとっていました。勤王党とは路線が異なります。その暗殺には勤王党の者が関与したとされますが、半平太自身がどこまで指示したかについては議論があります。
天誅
半平太の勤王党は、京都でも活動しました。
当時の京都では、開国に協力したとみなされた者や、志士の敵とされた者が、次々と暗殺されました。天誅と称されたこの暗殺の実行部隊に、勤王党の者たちがいました。
その実行者の一人が、岡田以蔵です。武市の指示を受けたとされる暗殺があり、思想を掲げる側と実行する側という関係が、勤王党のなかにありました。ただし個々の事件でどこまで武市が直接命じたかは、事件ごとに異なります。
この構図が、のちに勤王党の悲劇を生みます。
弾圧、そして切腹
文久 3 年(1863 年)、京都の政局が一変します。八月十八日の政変で攘夷派が朝廷から追われ、土佐でも情勢が変わりました。
土佐藩の実権を握っていたのは、前藩主・山内容堂です。容堂は勤王党を嫌い、これを徹底的に弾圧しました。半平太をはじめ、勤王党の面々が次々と捕らえられます。
半平太は投獄され、長い取り調べを受けました。彼は自らの罪を認めず、屈しませんでした。
問題となったのは、実行者たちの供述です。とりわけ岡田以蔵が拷問に耐えかねて供述したことが、半平太らを追い詰めました。半平太が以蔵に毒を送って口を封じようとしたという話まで伝わります(真偽は定かではありません)。
慶応元年閏 5 月(西暦では 1865 年 7 月)、半平太は切腹を命じられます。満 36 歳(数えで 37)でした。
このとき半平太は、三文字割腹という、通常より苦しい形の切腹を遂げたと伝えられます。武士としての最後の意地を、その死に方に示したとされます。
武市半平太の妻と子孫
半平太には、富子という妻がいました。夫婦仲はよく、半平太が獄中にあった間、富子は夫を支え続けたと伝えられます。
二人の間に子はありませんでした。 そのため半平太に直系の子孫はいません。武市家は、養子によって継がれました。
獄中の半平太が富子に宛てた手紙や、自らを描いた自画像が残されており、追い詰められた状況にあってなお、静かな筆致を保っていたことが伝わります。
武市半平太の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1829 年 | 土佐藩の郷士の家に生まれる |
| 1850 年代 | 江戸で剣を学び、塾頭を務める |
| 1861 年 | 土佐勤王党を結成 |
| 1862 年 | 吉田東洋の暗殺。勤王党の影響力が高まる |
| 1863 年 | 政変後、山内容堂により弾圧。投獄される |
| 1865 年 | 切腹を命じられる。満 36 歳 |
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