岡田以蔵とは?「人斬り以蔵」の実像と最期をわかりやすく解説

「人斬り」という呼び名が、そのまま人物の代名詞になってしまった例です。岡田以蔵。満 27 歳で処刑されました。
目次
岡田以蔵とは何をした人か
以蔵は、土佐勤王党の一員として、京都で暗殺の実行にあたった人物です。
文久年間の京都では、開国に協力したとみなされた者や、志士の側から敵視された者が次々と殺されました。天誅と称されたこの暗殺の波で、実際に刀を振るった一人が以蔵です。
天保 9 年(1838 年)、土佐の下級の武士の家に生まれました。父は足軽格だったとされますが、以蔵自身の身分表記は資料によって揺れがあります。
剣だけがあった
以蔵は学問の人ではありませんでした。読み書きも十分ではなかったと伝えられます。
しかし剣は際立っていました。江戸へ出て道場で修行し、その腕を武市半平太に見込まれます。武市は土佐勤王党を率いた人物で、以蔵は彼を師と仰ぎ、その指示に従いました。
思想を語る側と、刀を振るう側。 土佐勤王党のなかで、以蔵に割り当てられた役割ははっきりしていました。
そしてこの関係が、彼の最期を決めることになります。
勝海舟を守った男
以蔵について、しばしば引かれる逸話があります。
彼が一時、勝海舟の護衛についていた時期がありました。ある夜、勝が襲われたとき、以蔵は刺客の一人を斬り、残りを退散させたといいます。
勝の回想によれば、後日その殺生を戒めたところ、以蔵は**「自分がいなければ先生の首は飛んでいた」という趣旨のことを返した**とされます。
人を斬る側の人間が、開国論者を守っていた。 しかも諫められて反論している。この逸話が繰り返し語られるのは、以蔵という人物の単純ではない位置を示すからでしょう。
捕縛と拷問
文久 3 年(1863 年)、京都の政局が変わります。八月十八日の政変で攘夷派が朝廷から排除され、土佐でも勤王党への弾圧が始まりました。
以蔵は脱藩して京都をさまよい、やがて捕らえられて土佐へ送られます。
土佐藩は、彼に厳しい拷問を加えました。 武市半平太ら勤王党の幹部を有罪にするための供述を得ることが目的です。
以蔵は耐えきれず、供述したと伝えられます。
これによって武市らの罪状が固まったとされ、武市は切腹を命じられました。獄中の武市が、以蔵に毒を盛って口を封じようとしたという話まで残っています(実行されたかどうかは定かではありません)。
思想を与えた側が、実行した側を消そうとした。 土佐勤王党の終わり方には、そういう構図が含まれています。
最期
慶応元年閏 5 月 11 日(西暦 1865 年 7 月 3 日)、以蔵は処刑されました。満 27 歳(数えで 28)です。
死に方は打首でした。武士に許される切腹ではありません。身分の低さと、罪状の扱われ方が、そのまま死に方に出ています。
妻はいたのか
以蔵について「妻」がしばしば検索されますが、妻がいたことを示す確かな記録はありません。20 代で処刑されており、家庭を持った形跡は伝わっていません。
物語のなかで女性との関係が描かれることはありますが、それらは創作です。
「人斬り以蔵」という呼び名
以蔵が今日これほど知られているのは、小説と映像作品によるところが大きいです。
司馬遼太郎の短編をはじめ、彼を扱った作品は数多くあります。漫画やドラマにも繰り返し登場してきました。
呼び名だけが強く残り、人物のほうが後から追いかけている状態だと言えます。実際の記録は乏しく、どの暗殺にどこまで関与したかについても、確定していない部分が残ります。
確かなのは、身分の低い剣の使い手が、上位者の指示で人を斬り、捨てられて死んだという骨格です。
岡田以蔵の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1838 年 | 土佐の下級の武士の家に生まれる |
| 1850 年代 | 剣の修行に励み、武市半平太に見込まれる |
| 1861 年頃 | 土佐勤王党に加わる |
| 1862〜63 年 | 京都で「天誅」と称する暗殺に関わる |
| 1863 年 | 政変後、脱藩して京都をさまよう |
| 1864 年 | 捕らえられ、土佐で拷問を受ける |
| 1865 年 | 処刑される。満 27 歳 |
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