幕末の偉人

後藤象二郎とは?大政奉還を藩に建白させた土佐の実力者

約7分で読めます
後藤象二郎とは?大政奉還を藩に建白させた土佐の実力者
後藤象二郎 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

大政奉還を幕府に持ちかけたのは、土佐藩でした。 その建白書を書かせ、前藩主を動かしたのが後藤象二郎です。そして彼は、武市半平太を裁いた側でもあります。

目次

後藤象二郎とは何をした人か

後藤象二郎は、土佐藩の上士出身の政治家です。幕末と明治を通して、要職を渡り歩きました。

その足跡は三つに分かれます。

第一に、土佐藩の実務を握ったこと。 山内容堂のもとで参政となり、長崎での貿易も差配しました。

第二に、大政奉還の建白を主導したこと。 坂本龍馬の構想を受け、容堂を説いて幕府への建白書に持ち込みました。

第三に、明治の政界を生き抜いたこと。 参議、自由党、大同団結運動、そして逓信大臣・農商務大臣。幕末の志士のうち、政党政治の側まで進んだ数少ない一人です。

天保 9 年 3 月 19 日(1838 年 4 月 13 日)に生まれ、明治 30 年(1897 年)8 月 4 日に没しました。満 59 歳です。

後藤象二郎と吉田東洋

後藤は土佐藩の上士の家に生まれましたが、幼くして父を亡くします。彼を引き取って育てたのが、叔父にあたる吉田東洋でした。

東洋は山内容堂に登用されて藩政改革を進めた人物で、その私塾(少林塾)からは後藤のほか板垣退助らが出ています。幕末土佐の上士グループは、ほぼこの塾から出ました。

文久 2 年(1862 年)、その東洋が土佐勤王党の刺客に暗殺されます。後藤は一時失脚し、江戸で航海術と英学を学びました。

後藤象二郎が武市半平太を裁いた側だった理由

元治元年(1864 年)、山内容堂が藩論を引き戻すと、後藤は復権して大監察となり、翌慶応元年(1865 年)に参政へ進みます。

彼がまずやったのは、土佐勤王党の弾圧でした。後見者であった吉田東洋を殺した勢力の一掃です。党首の武市半平太は投獄され、慶応元年閏 5 月 11 日(1865 年 7 月 3 日)に切腹を命じられます。岡田以蔵も処刑されました。

後藤象二郎という人物を評価しにくいのは、この一点があるからです。 大政奉還を主導した開明的な実務家であると同時に、尊攘派を摘発して切腹させた側でもある。土佐藩の内部抗争は、身内の殺し合いに近いところまで行きました。

後藤象二郎と坂本龍馬の提携

慶応 3 年(1867 年)、後藤は長崎で坂本龍馬と会います。清風亭での会談です。

この二人は、本来なら相容れません。 龍馬は脱藩浪士で、後藤は龍馬の同志たちを裁いた藩の参政です。それでも二人は手を組みました。藩の資金と船を使える後藤と、構想と人脈を持つ龍馬は、互いに必要だったからです。

龍馬の海援隊は土佐藩の外郭として動き、長崎での商いも回り始めます。

そして龍馬が示した新しい国のかたちの構想(いわゆる船中八策として伝わるもの)を、後藤は藩の政策として受け止めました。「幕府が自分から政権を返せば、戦をせずに済む」という筋です。

後藤象二郎の大政奉還建白

慶応 3 年 10 月 3 日(1867 年 10 月 29 日)、土佐藩は前藩主山内容堂の名で、幕府に政権返上を求める建白書を提出します。後藤が実務を担いました。

そして慶応 3 年 10 月 14 日(1867 年 11 月 9 日)、徳川慶喜大政奉還を上奏します。

武力討幕を進めていた薩摩・長州とは、まるで違う道筋でした。土佐は「戦わずに幕府を終わらせる」案に賭け、それは一度は通ります。もっとも、その約二か月後には王政復古の大号令が出て、結局戊辰戦争になりました。

同じ年の 11 月 15 日(慶応 3 年 11 月 15 日、1867 年 12 月 10 日)、坂本龍馬は京都近江屋で暗殺されます。

明治の後藤象二郎

維新後の後藤は、要職を次々に務めました。大阪府知事、工部大輔、左院議長。明治 6 年(1873 年)には参議となりますが、征韓論をめぐる政変で西郷隆盛板垣退助らとともに下野します。

翌明治 7 年(1874 年)、板垣退助江藤新平副島種臣らと連名で民撰議院設立建白書を提出。日本の議会開設運動は、ここから始まります。

一方で事業にも手を出しました。明治 7 年(1874 年)に政府から高島炭鉱の払い下げを受けますが、経営は行き詰まり、後に岩崎弥太郎の三菱へ売却しています。

明治 14 年(1881 年)に自由党の結成に加わり、明治 20 年(1887 年)には反政府勢力を糾合する大同団結運動を率いました。しかしその後は政府側に転じ、逓信大臣(1889〜92 年)、農商務大臣(1892〜94 年)を務めます。伯爵。

この転身は当時から批判されました。 民権運動の旗を振っていた人物が、政府の大臣になったからです。

後藤象二郎の最期と墓

明治 30 年(1897 年)8 月 4 日に没しました。満 59 歳です。

墓は東京都港区の青山霊園にあります。同じ土佐の板垣退助の墓と同じ形で並んでいます。

後藤象二郎の年表

出来事
1838 年 4 月 13 日土佐藩上士の家に生まれる(天保 9 年 3 月 19 日)
1848 年父を失い、姻戚の吉田東洋に養われる
1862 年吉田東洋が暗殺され、一時失脚。江戸で航海術・英学を学ぶ
1864 年山内容堂のもとで復権し、大監察となる(参政は翌 1865 年)
1865 年 7 月 3 日武市半平太が切腹(慶応元年閏 5 月 11 日)
1867 年 2 月長崎の清風亭で坂本龍馬と会談する
1867 年 10 月 29 日土佐藩が大政奉還の建白書を提出(慶応 3 年 10 月 3 日)
1867 年 11 月 9 日徳川慶喜が大政奉還を上奏(慶応 3 年 10 月 14 日)
1873 年参議となるが、征韓論政変で下野
1874 年民撰議院設立建白書に連名。高島炭鉱の払い下げを受ける
1881 年自由党の結成に加わる
1887 年大同団結運動を率いる。伯爵
1889〜92 年逓信大臣
1892〜94 年農商務大臣
1897 年 8 月 4 日没。満 59 歳

盟友は坂本龍馬板垣退助、主君は山内容堂、裁いた相手は武市半平太です。

あわせて読みたい