幕末の偉人

江藤新平とは?日本の司法をつくり梟首された初代司法卿の生涯

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江藤新平とは?日本の司法をつくり梟首された初代司法卿の生涯
江藤新平 肖像写真(1872〜73 年ごろ) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

日本の裁判制度の骨格をつくった人物が、裁判らしい裁判を受けずに首を斬られました。江藤新平。初代の司法卿です。

目次

江藤新平とは何をした人か

江藤は、肥前佐賀藩の下級武士から、明治政府の司法のトップに進んだ官僚政治家です。

その仕事は三つに集約されます。

第一に、司法制度をつくったこと。 全国に裁判所を置き、法典の編纂を急がせ、司法権が行政から独立すべきだと主張しました。今日の日本の司法制度の原型は、この時期に敷かれています。

第二に、政府高官の汚職を追及したこと。 山県有朋井上馨を、それぞれ疑獄で辞任に追い込みました。維新の功労者を、法の名で裁こうとしたのです。

第三に、佐賀の乱で敗れ、処刑されたこと。 それが彼の最期になりました。

天保 5 年(1834 年)、佐賀に生まれています。

江藤新平を生んだ佐賀という土壌

江藤は、佐賀藩の下級の武士の家に生まれました。家は貧しく、学費に苦労したと伝えられます。

彼が学んだのは、国学者・枝吉神陽の塾です。ここには大隈重信副島種臣がいました。明治政府を担う佐賀の人材が、同じ場所から出ています。

文久 2 年(1862 年)、江藤は脱藩して京都へ出ます。当時、脱藩は重罪です。帰藩後、彼は長い謹慎を命じられました。幕末の最も動いた数年を、江藤は佐賀で足止めされたまま過ごします。

江藤新平が作った日本の司法制度

明治になり、江藤は一気に中央へ進みます。明治 5 年(1872 年)、初代の司法卿に就きました。

彼がやったのは、「法で動く国」をゼロから組み立てることです。

裁判所を全国に置きました。 それまで、裁くのは行政官の仕事でした。江藤は、裁判は独立した機関がやるべきだと考えます。

法典の編纂を急がせました。 フランスの法律を土台にした民法づくりを、猛烈な速度で進めさせています。完璧さより速さを優先させたと伝えられ、そのやり方はしばしば批判されました。

役人を訴えられるようにしました。 民が官を訴える道を制度として開いたのです。これは、当時としては相当に急進的な発想でした。

江藤新平の汚職追及と山県有朋

江藤の司法省は、政府の内部に刃を向けます。

山県有朋は、陸軍の公金が商人に流れた事件で辞任に追い込まれました。井上馨は、鉱山の払い下げをめぐる疑惑で追及されます。

いずれも維新の功労者であり、薩長の中核です。江藤はそこへ踏み込みました。

法の前では、維新の元勲も一人の被告である」——これが江藤の立場でした。そして、その立場が彼を政府内で孤立させます。

江藤新平と佐賀の乱

明治 6 年(1873 年)、朝鮮への使節派遣をめぐって政府が割れました。明治六年の政変です。

西郷隆盛板垣退助らが敗れて下野し、江藤も政府を去りました。

翌明治 7 年(1874 年)1 月、江藤は板垣らと民撰議院設立建白書に署名します。国会を開けという、日本で最初の公的な要求でした。

その直後、彼は故郷の佐賀へ帰ります。そこには、政府に不満を持つ士族が集まっていました。江藤は彼らの首領に担ぎ上げられ、佐賀の乱が起こります。

乱は短期間で鎮圧されました。江藤は鹿児島の西郷隆盛や高知の同志に助力を求めますが、いずれも得られません。逃亡の末、土佐で捕らえられました。

江藤新平の最期

江藤を裁いたのは、佐賀に設けられた臨時裁判所です。手続きは早く、弁論の機会はほとんどありませんでした。司法制度をつくった当人が、その保障を受けられなかったことになります。

判決は、除族のうえ梟首。斬首して首をさらす刑です。明治 7 年 4 月 13 日、執行されました。満 40 歳でした。

さらし首は写真に撮られ、その写真は現在も残っています。近代の刑罰としては異例に重く、この処断を主導した大久保利通への評価をめぐって、今日でも議論があります。

なお、梟首刑そのものは、この数年後に廃止されました。

江藤新平の墓

墓は佐賀市の本行寺にあります。佐賀では、維新の十傑にも数えられる郷土の偉人として顕彰されており、市内に銅像が立っています。

江藤新平の年表

出来事
1834 年佐賀藩の下級武士の家に生まれる
1850 年代枝吉神陽に学ぶ。大隈重信副島種臣と同門
1862 年脱藩して京都へ。帰藩後に長い謹慎
1872 年初代司法卿に就任。裁判所の設置と法典編纂を進める
1872〜73 年山県有朋井上馨の疑獄を追及
1873 年明治六年の政変で下野
1874 年 1 月民撰議院設立建白書に署名
1874 年 2 月佐賀の乱の首領に担がれ、敗れる
1874 年 4 月捕縛・処刑。満 40 歳

同じ佐賀の同志は大隈重信副島種臣、処断を主導したのは大久保利通です。

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