幕末の偉人

板垣退助とは?百円札の肖像と「自由は死せず」の真相を解説

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板垣退助とは?百円札の肖像と「自由は死せず」の真相を解説
板垣退助 肖像写真 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

かつて日本の百円札に描かれていた人物です。板垣退助。刀で戦った幕末の武士でありながら、明治には「議会を作れ」と政府に迫った側に立ちました。

目次

板垣退助は何をした人か

板垣の仕事は、前半と後半でまるで性格が違います。

前半は、軍人としての戦い。 土佐藩の部隊を率いて戊辰戦争を戦い、甲州では新選組の部隊を破り、会津攻めにも加わりました。

後半は、言論による戦い。 明治政府を去ったのち、民撰議院設立建白書を提出して国会開設を求め、自由民権運動の中心人物となります。日本で最初の本格的な政党である自由党を率いました。

武力で新政府を作った側の人間が、その新政府に向かって「権力を分けろ」と言い続けた。 これが板垣という人物の骨格です。

土佐から戊辰戦争へ

天保 8 年(1837 年)、土佐藩の上士の家に生まれます。もとの姓は乾で、板垣を名乗るのは戊辰戦争の頃からです。

武市半平太らの土佐勤王党とは立場を異にしていましたが、やがて倒幕へと傾き、薩摩と結んで挙兵の準備を進めました。

戊辰戦争では迅衝隊を率いて東へ進み、甲州勝沼で近藤勇の部隊と戦ってこれを破ります。さらに会津へ攻め入り、会津藩の抵抗を打ち破る側にいました。

指揮官として有能で、実戦の評価が高い人物でした。この軍功が、明治政府での地位につながります。

政府を去り、国会開設を求める

明治新政府で参議となった板垣ですが、明治 6 年(1873 年)、朝鮮への対応をめぐる対立に敗れて政府を離れます。西郷隆盛らとともに下野しました。

しかし板垣は、西郷のように武力に訴える道を選びません。翌年、彼は民撰議院設立建白書を政府に提出します。

主張はこうです。いま政治は一部の藩の出身者だけで動かされている。これでは国は立ちゆかない。広く民の代表を集めた議会を開くべきだ。

薩摩と長州の出身者が政府を占める状況に対し、土佐出身の板垣が突きつけた批判でした。ここから自由民権運動が全国に広がっていきます。

明治 14 年(1881 年)には国会開設の勅諭が出され、板垣は自由党を結成してその総理となりました。

「板垣死すとも自由は死せず」の真相

明治 15 年(1882 年)、岐阜で演説を終えた板垣は暴漢に襲われ、負傷します。このとき叫んだとされるのが、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉です。

ただし、この言葉を本当に板垣自身が発したのかについては、当時から異説があります。 その場に居合わせた別の人物の言葉が板垣のものとして伝えられた、とする説も根強く残っています。

とはいえ、この一句が自由民権運動の合言葉として全国に広まったことは事実です。言葉の出所より、言葉が果たした役割のほうが大きかったという珍しい例だと言えます。

板垣はこの襲撃で死にませんでした。以後も政党政治の中心にあり続け、内務大臣も務めています。

百円札の板垣退助

板垣の顔がもっとも多くの日本人の目に触れたのは、おそらく紙幣を通じてでした。

戦後に発行された百円札の肖像に、板垣が採用されています。長く流通したため、「百円札の人」として記憶している世代がいるほどです。

その後、百円は硬貨に移行し、紙幣は姿を消しました。現在では日常で目にすることはありませんが、古い紙幣として見かける機会はあります。

自由民権運動という政治的な業績よりも、紙幣の肖像として名前が残った――知名度の作られ方としては、いささか皮肉な経路でした。

晩年と最期

晩年の板垣は、社会事業や華族制度の見直しにも関心を寄せました。自ら得た爵位について、世襲を望まない姿勢を示したとも伝えられます。

大正 8 年(1919 年)、82 歳で死去。幕末に刀を取った世代としては、きわめて長い生涯でした。

板垣退助の年表

出来事
1837 年土佐藩の上士の家に生まれる
1868 年戊辰戦争。甲州勝沼で新選組の部隊を破り、会津へ進む
1871 年明治政府の参議となる
1873 年政変により下野
1874 年民撰議院設立建白書を提出。自由民権運動が始まる
1881 年自由党を結成し総理となる
1882 年岐阜で襲撃される。「板垣死すとも自由は死せず」
1919 年死去。82 歳

同じく土佐から出た人々は坂本龍馬中岡慎太郎、政府の成り立ちは明治維新で扱っています。

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