幕末の偉人

西郷隆盛とは?何をした人か生涯と最期をわかりやすく解説

約7分で読めます
西郷隆盛とは?何をした人か生涯と最期をわかりやすく解説

「敬天愛人」を座右の銘とした西郷隆盛は、明治維新を成し遂げた中心人物のひとりでありながら、最後は新政府に背いて立ち上がり、戦いのなかで生涯を閉じました。維新の英雄と最大の反乱者という、相反する顔をあわせ持つ人物です。

目次

西郷隆盛の生い立ちと二度の島流し

西郷隆盛は文政10年(1828年)、薩摩藩の下級藩士の家に生まれました。藩主・島津斉彬に見いだされて頭角をあらわし、藩政や幕末の政局のなかで重要な役割を担うようになります。

斉彬の死後は失脚して島流しを経験するなど、その前半生は決して順風満帆ではありませんでした。逆境のなかで培われた胆力と人望が、のちの西郷を支える土台となります。

西郷隆盛の肖像画

西郷隆盛の肖像画
西郷隆盛 肖像(本人写真は非現存・肖像での代替)出典: Wikimedia Commons PD-Japan-oldphoto

西郷隆盛は何をした人か(討幕と江戸無血開城)

薩摩藩の軍事指導者となった西郷は、坂本龍馬らの仲立ちで成立した薩長同盟を背景に、討幕の流れを主導していきます。

戊辰戦争では新政府軍(官軍)の参謀として、旧幕府軍との戦いを指揮しました。なかでも歴史的に名高いのが、江戸無血開城です。1868年、西郷は幕臣・勝海舟との会談に臨み、江戸城を戦火にさらすことなく明け渡すことで合意しました。百万都市・江戸を戦場にしない。この決断が、多くの命を救ったと評価されています。

西郷隆盛が新政府を去った理由

維新後、西郷は新政府の参議として国づくりに携わりました。しかし、近代化を急ぐ政府の方針と、士族の処遇をめぐって対立が深まっていきます。

1873年、対外政策をめぐる政争(いわゆる征韓論政変)に敗れた西郷は、政府の職を辞して郷里・鹿児島へ帰りました。多くの士族が西郷を慕って鹿児島に集まり、私学校を拠点に独自の勢力を形成していきます。

西郷隆盛と西南戦争

近代国家への改革は、特権を失っていく士族たちの不満を各地で噴き出させました。そして1877年、鹿児島の士族たちが蜂起し、西郷はその頂点に担ぎ上げられます。西南戦争です。

近代装備を整えた政府軍に対し、士族の軍勢は次第に追い詰められていきました。最後は鹿児島の城山に立てこもり、西郷はそこで生涯を閉じます。日本最後の内戦は、皮肉にも維新の最大の功労者のひとりを敵として終わりました。

西郷隆盛の最期となぜ死んだのか

1877年9月24日、政府軍の総攻撃を受けた城山で、西郷は最期を迎えました。数えで51、満49歳でした。

伝えられているところでは、西郷は銃弾に倒れて動けなくなり、付き従っていた別府晋介に介錯を頼んだといいます。「晋どん、もう、ここらでよか」と告げたと語り継がれていますが、これは後世に整えられた表現である可能性が高く、そのままの言葉であったとは限りません。

そもそも西郷が積極的に反乱を望んだかどうかには、慎重な見方があります。 鹿児島に帰った西郷のもとには不満を抱えた士族が集まり、私学校の生徒が政府の火薬庫を襲撃したことが開戦の直接のきっかけとなりました。西郷はその頂点に担ぎ上げられたという性格が強いのです。維新の最大の功労者が、自ら育てた新政府と戦う側に立たされたところに、この戦争の悲劇があります。

死後まもなく西郷を逆賊とする扱いは緩められ、1889年には正式に赦されて正三位を追贈されました。上野公園の銅像が建てられたのは、その後のことです。

西郷隆盛と大久保利通が袂を分かった理由

同じ薩摩の下級藩士の家に生まれ、幼少期をともに過ごした大久保利通と西郷は、維新を実現させた最大の組み合わせでした。その2人が、最後は敵味方に分かれます。

決裂の分岐点は1873年の征韓論政変です。朝鮮への使節派遣をめぐって、西郷は自らが使節として赴くことを主張しました。これに対し、岩倉使節団として欧米を実地に見てきた大久保は、いまは国内の整備が先だとして強く反対します。政争に敗れた西郷は職を辞し、鹿児島へ帰りました。

対立の根は、この一件だけではありません。近代化を最優先し、士族の特権を削っていく大久保の路線と、その士族に担がれる立場となった西郷とでは、立ち位置そのものが噛み合わなくなっていました。

西南戦争において、政府側で鎮圧を主導したのは大久保でした。そして西郷の死の翌年、大久保もまた不平士族の手で暗殺されます。2人の関係は、感情のもつれというより、維新がもたらした矛盾がそのまま人格に貼りついたものだったといえるでしょう。

西郷隆盛の家族と妻

西郷は生涯に三度、妻を迎えています。

  • 須賀……最初の妻です。西郷が困窮していた時期に離縁となりました
  • 愛加那……奄美大島に流された時期にともに暮らした島の女性です。長男・菊次郎、長女・菊草をもうけましたが、西郷の赦免にあたり島の外へは出られませんでした
  • 糸子……鹿児島に戻ってから迎えた妻です。3人の子をもうけ、西郷の最期まで家を支えました

奄美で生まれた長男の西郷菊次郎は、のちにアメリカ留学を経て京都市長を務めています。西南戦争には父の側で従軍し、負傷して片脚を失いました。

弟の西郷従道は、兄とは反対に政府側にとどまり、海軍大臣などを歴任します。兄弟が敵味方に分かれたことも、この時代の断裂を物語っています。

西郷隆盛はどんな人物だったのか

西郷を語る言葉としてもっとも有名なのが、座右の銘とされる「敬天愛人」、すなわち天を敬い人を愛すという言葉です。

同時代の証言が一致するのは、人を惹きつける力の強さです。理屈で説き伏せるのではなく、その場にいるだけで人が付き従ったと、多くの記録が伝えています。勝海舟は江戸開城の会談で相対した西郷について、度量の大きさを高く評価する言葉を残しました。

体格の大きさと、島流しを二度経験しながら再起した経歴も、その人物像を形づくっています。ただし、現在よく知られる西郷の「顔」は本人のものではありません。 西郷は写真を残さなかったとされ、上野の銅像も肖像画も、親族の面影などをもとに死後に描かれたものです。

西郷隆盛のゆかりの地

  • 南洲墓地・南洲神社(鹿児島市)……西郷と西南戦争の戦死者が葬られています
  • 城山(鹿児島市)……最期の地で、洞窟が残っています
  • 西郷隆盛銅像(鹿児島市/東京・上野公園)……上野の像は犬を連れた浴衣姿で知られています
  • 奄美大島・沖永良部島……流された地です。龍郷町に愛加那と暮らした家が残っています

西郷隆盛の年表

出来事
1828年薩摩藩の下級藩士の家に生まれる
1854年藩主・島津斉彬に登用され、江戸へ出る
1858年斉彬の死後に失脚。奄美大島へ渡る
1862年帰藩するも再び沖永良部島へ流される
1866年薩長同盟が成立
1868年江戸無血開城。戊辰戦争を新政府軍参謀として指揮
1873年征韓論政変に敗れ、政府を去って鹿児島へ
1877年9月24日西南戦争、城山にて死去。満49歳
1889年赦免され、正三位を追贈される

よくある質問

西郷隆盛は何をした人ですか。

薩摩藩の指導者として討幕を進め、勝海舟との会談で江戸城の無血開城を実現しました。維新後は新政府の中心にいましたが、征韓論をめぐって下野し、西南戦争で没しています。

西郷隆盛はどのように死んだのですか。

明治 10 年(1877 年)9 月 24 日、西南戦争の最後の戦場である鹿児島の城山で自刃しました。満 49 歳です。

西郷隆盛は「最後の武士」だったのですか。

士族の不満を背負って新政府と戦った点でそう語られますが、本人は近代化そのものに反対したわけではありません。評価の枠組みとしての呼び名です。

上野の銅像は本人に似ているのですか。

西郷には本人と確定できる写真がありません。知られる顔は、弟の西郷従道らの写真をもとに画家が描いたものが元になっています。

西郷の死後、その人物像は時代とともに大きく語り直されてきました。英雄か、反逆者か。単純な評価を避け、史実に立ち返って読み解きたい人物です。ほかの志士たちは幕末の偉人の一覧からどうぞ。

あわせて読みたい