幕末の偉人

副島種臣とは?外務卿として苦力を救い、書を残した生涯

約4分で読めます
副島種臣とは?外務卿として苦力を救い、書を残した生涯
副島種臣 肖像写真 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

明治日本が、自国の裁判で外国船の乗員を解放した事件があります。動かしたのは外務卿・副島種臣でした。

目次

副島種臣とは何をした人か

副島の仕事は、三つに分かれます。

第一に、外交。 明治政府の外務卿として、清との交渉や、後述するマリア・ルス号事件を処理しました。

第二に、政治。 征韓論をめぐる対立で下野し、民撰議院設立建白書に名を連ねます。板垣退助らとともに、議会開設を求めた側です。

第三に、書。 号を蒼海といい、書家として今日まで高く評価されています

文政 11 年(1828 年)、肥前佐賀藩の学者の家に生まれました。

佐賀という土壌

佐賀藩は、幕末において特異な位置にありました。長崎の警備を担ったことで西洋の情報が入りやすく、藩主・鍋島直正のもとで技術面が突出していた藩です。

同じ佐賀からは大隈重信や江藤新平が出ています。副島はその一人でした。

彼の家は国学の家系で、兄の枝吉神陽は佐賀の思想界に大きな影響を与えた人物です。副島の土台は国学と漢学にあり、同郷の他の人物とは出発点が異なりました。ただし洋学と無縁だったわけではなく、佐賀の致遠館でフルベッキから英学も学んでいます。

マリア・ルス号事件

明治 5 年(1872 年)、副島の名を決定づける事件が起こります。

横浜に停泊していたペルー船マリア・ルス号から、清国人の労働者が逃げ出し、助けを求めました。船には多数の清国人が乗せられており、その扱いは事実上の人身売買に近いものでした。

外務卿だった副島は、日本の法廷でこれを裁くという判断を下します。

当時の日本は不平等条約下にあり、外国人が絡む案件では日本の裁判権が制限されていました。その日本が、外国船の内部の問題に司法で踏み込むというのは、きわめて異例です。

神奈川県庁で開かれた裁判の結果、清国人たちは解放されました

ペルー側は反発し、この件はのちに国際仲裁へ持ち込まれます。仲裁でも日本側の措置が認められました。

条約に縛られた弱い立場の国が、法を使って人を解放した。 明治初期の外交として、これは特筆される一件です。

なお、この裁判の過程で「日本にも同じような拘束があるではないか」と反論され、遊女の年季奉公が問題として浮上します。これが同年の芸娼妓解放令につながったとされます。他国を裁いた結果が、自国の制度に跳ね返ったわけです。

下野、そして書へ

明治 6 年(1873 年)、朝鮮への対応をめぐる政変で、副島は政府を去ります。西郷隆盛板垣退助らとともに下野しました。

翌年、板垣らと民撰議院設立建白書に署名します。議会を開けという要求です。

その後、副島は清国を旅し、のちに枢密顧問官や内務大臣といった要職にも就きました。しかし彼の後半生でとりわけ知られるのは、です。

蒼海の号で書かれた作品は、型にはまらない大胆な構成で知られます。漢学の素養に裏打ちされながら、書法の常識を外れる筆づかい。明治の書のなかでも独自の位置を占めており、今日でも展覧会が開かれ、研究の対象となっています。

外交官としての彼を知らない人が、書を通じて彼を知るということが、実際に起きています。

最期

明治 38 年(1905 年)、副島は死去します。満 76 歳でした。

副島種臣の年表

出来事
1828 年肥前佐賀藩の学者の家に生まれる
1868 年明治維新後、新政府に出仕
1871 年外務卿となる
1872 年マリア・ルス号事件を処理し、清国人労働者を解放
1873 年政変により下野
1874 年民撰議院設立建白書に署名
1905 年死去。満 76 歳

同じ佐賀の人物は大隈重信、議会開設運動は板垣退助で扱っています。

あわせて読みたい