副島種臣とは?外務卿として苦力を救い、書を残した生涯

明治日本が、自国の裁判で外国船の乗員を解放した事件があります。動かしたのは外務卿・副島種臣でした。
目次
副島種臣とは何をした人か
副島の仕事は、三つに分かれます。
第一に、外交。 明治政府の外務卿として、清との交渉や、後述するマリア・ルス号事件を処理しました。
第二に、政治。 征韓論をめぐる対立で下野し、民撰議院設立建白書に名を連ねます。板垣退助らとともに、議会開設を求めた側です。
第三に、書。 号を蒼海といい、書家として今日まで高く評価されています。
文政 11 年(1828 年)、肥前佐賀藩の学者の家に生まれました。
佐賀という土壌
佐賀藩は、幕末において特異な位置にありました。長崎の警備を担ったことで西洋の情報が入りやすく、藩主・鍋島直正のもとで技術面が突出していた藩です。
同じ佐賀からは大隈重信や江藤新平が出ています。副島はその一人でした。
彼の家は国学の家系で、兄の枝吉神陽は佐賀の思想界に大きな影響を与えた人物です。副島の土台は国学と漢学にあり、同郷の他の人物とは出発点が異なりました。ただし洋学と無縁だったわけではなく、佐賀の致遠館でフルベッキから英学も学んでいます。
マリア・ルス号事件
明治 5 年(1872 年)、副島の名を決定づける事件が起こります。
横浜に停泊していたペルー船マリア・ルス号から、清国人の労働者が逃げ出し、助けを求めました。船には多数の清国人が乗せられており、その扱いは事実上の人身売買に近いものでした。
外務卿だった副島は、日本の法廷でこれを裁くという判断を下します。
当時の日本は不平等条約下にあり、外国人が絡む案件では日本の裁判権が制限されていました。その日本が、外国船の内部の問題に司法で踏み込むというのは、きわめて異例です。
神奈川県庁で開かれた裁判の結果、清国人たちは解放されました。
ペルー側は反発し、この件はのちに国際仲裁へ持ち込まれます。仲裁でも日本側の措置が認められました。
条約に縛られた弱い立場の国が、法を使って人を解放した。 明治初期の外交として、これは特筆される一件です。
なお、この裁判の過程で「日本にも同じような拘束があるではないか」と反論され、遊女の年季奉公が問題として浮上します。これが同年の芸娼妓解放令につながったとされます。他国を裁いた結果が、自国の制度に跳ね返ったわけです。
下野、そして書へ
明治 6 年(1873 年)、朝鮮への対応をめぐる政変で、副島は政府を去ります。西郷隆盛や板垣退助らとともに下野しました。
翌年、板垣らと民撰議院設立建白書に署名します。議会を開けという要求です。
その後、副島は清国を旅し、のちに枢密顧問官や内務大臣といった要職にも就きました。しかし彼の後半生でとりわけ知られるのは、書です。
蒼海の号で書かれた作品は、型にはまらない大胆な構成で知られます。漢学の素養に裏打ちされながら、書法の常識を外れる筆づかい。明治の書のなかでも独自の位置を占めており、今日でも展覧会が開かれ、研究の対象となっています。
外交官としての彼を知らない人が、書を通じて彼を知るということが、実際に起きています。
最期
明治 38 年(1905 年)、副島は死去します。満 76 歳でした。
副島種臣の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1828 年 | 肥前佐賀藩の学者の家に生まれる |
| 1868 年 | 明治維新後、新政府に出仕 |
| 1871 年 | 外務卿となる |
| 1872 年 | マリア・ルス号事件を処理し、清国人労働者を解放 |
| 1873 年 | 政変により下野 |
| 1874 年 | 民撰議院設立建白書に署名 |
| 1905 年 | 死去。満 76 歳 |
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