幕末の文化

黒船来航とは?いつ何隻来たのか、ペリーが来た理由を解説

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黒船来航とは?いつ何隻来たのか、ペリーが来た理由を解説
ペリー来航を描いた日本の版画(1854) / 出典: Wikimedia Commons PD-old-70

幕末という時代は、四隻の軍艦から始まりました。黒船来航——嘉永 6 年 6 月 3 日、西暦 1853 年 7 月 8 日のことです。

目次

黒船来航はいつ、どこに来たのか

1853 年 7 月 8 日(嘉永 6 年 6 月 3 日)、江戸湾の入り口である浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)に、アメリカの艦隊が現れました。

項目内容
日付1853 年 7 月 8 日(嘉永 6 年 6 月 3 日)
場所浦賀沖(現在の神奈川県横須賀市)
指揮官マシュー・ペリー(東インド艦隊司令長官)
隻数4 隻
内訳蒸気外輪軍艦 2 隻(サスケハナ・ミシシッピ)と帆走軍艦 2 隻(サラトガ・プリマス)
目的大統領国書の受け取りを求め、開国を要求すること

「黒船」という呼び名は、船体が黒く塗られていたことに由来します。木造船の腐食を防ぐためにタールを塗っていたためです。

衝撃だったのは、風がなくても黒煙を上げて進む蒸気船でした。帆に頼らず、潮にも逆らって動く船を、当時の日本人の多くは初めて目にしています。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」——高級茶の銘柄「上喜撰」と「蒸気船」、茶の「四杯」と黒船の「四隻」を掛けたこの狂歌は、当時の動揺を伝える言葉として広く知られています(成立時期には諸説あります)。

ペリーはなぜ日本に来たのか

アメリカの目的は、侵略ではなく補給でした。理由は三つあります。

第一に、捕鯨船の寄港地です。 当時アメリカは太平洋で大規模な捕鯨を行っており、日本近海にも多数の船を出していました。水と薪炭を補給できる港が必要だったのです。

第二に、中国との貿易の中継地です。 蒸気船は石炭を大量に消費します。太平洋を横断して中国へ向かうには、途中に石炭の補給地が要りました。

第三に、漂流民の保護です。 難破したアメリカ人が日本で拘束される事例があり、その扱いの取り決めを求めていました。

つまり黒船来航は、蒸気船の登場によって太平洋が「通り道」になったことの帰結です。ジョン万次郎がアメリカ捕鯨船に助けられて渡米したのも、この同じ流れの中の出来事でした。

幕府は黒船来航にどう対応したのか

ペリーは強硬でした。浦賀奉行が長崎へ回るよう求めても応じず、測量と称して江戸湾の奥まで艦を進めます。

幕府は久里浜での国書受け取りに応じ、1853 年 7 月 14 日(嘉永 6 年 6 月 9 日)、大統領フィルモアの親書を受け取りました。ペリーは「回答は来年受け取りに来る」と告げて去ります。

問題はその後です。将軍徳川家慶は来航の十九日後に病没し、幕政は老中首座阿部正弘が負うことになりました。

阿部が採った手は、前例のないものでした。諸大名と朝廷に、国書の内容を示して意見を求めたのです。

これは幕府が二百年以上守ってきた「外交は幕府の専権」という原則を、自ら崩す行為でした。以後、大名や朝廷が国政を論じるのが当たり前になります。幕末の政治対立は、ここから始まりました。

黒船来航から日米和親条約まで

1854 年 2 月(嘉永 7 年 1 月)、ペリーは約束どおり戻ってきます。 今度は艦隊の規模を増やしての再来でした。

交渉の末、1854 年 3 月 31 日(嘉永 7 年 3 月 3 日)、横浜村で日米和親条約が調印されます。

主な内容は次のとおりです。

  • 下田と箱館(現在の函館)を開くこと
  • アメリカ船に薪水・食料・石炭を供給すること
  • 漂流民を保護すること
  • アメリカの領事の駐在を認めること

注意したいのは、この条約が「貿易の条約」ではないことです。開いたのは補給のための港であって、通商はまだ始まっていません。

貿易が始まるのは、四年後の日米修好通商条約(1858 年 7 月 29 日)からです。これは初代総領事タウンゼント・ハリスが交渉し、大老井伊直弼天皇の勅許を得ないまま調印しました。この一件が安政の大獄桜田門外の変へ直結していきます。

翌 1859 年には横浜が開かれ、生糸を中心とする貿易が始まりました。

黒船来航は何をもたらしたのか

海防の急務。 江戸湾には品川沖に砲台(お台場)が急造され、大船建造の禁も解かれました。長崎海軍伝習所が開かれ、勝海舟らが西洋式の海軍を学び始めます。

政治の枠組みの変化。 幕府が諸大名に諮問したことで、島津斉彬徳川斉昭ら有力大名が国政に発言する道が開きました。

思想の急進化。 外国を打ち払うべきだという尊王攘夷の主張が、政治運動として力を持ち始めます。

経済の混乱。 開港後、金銀の交換比率の差から大量の金が海外へ流出し、万延の改鋳と物価高を招きました。

黒船来航は「一度の事件」ではありません。 ここから大政奉還まで十四年、明治維新まで十五年。幕末という時代そのものの出発点でした。

黒船来航の年表

年月日出来事
1853 年 7 月 8 日ペリーの艦隊 4 隻が浦賀沖に来航(嘉永 6 年 6 月 3 日)
1853 年 7 月 14 日久里浜で大統領国書を受け取る
1853 年 7 月 27 日将軍徳川家慶が病没
1853 年秋阿部正弘が諸大名・朝廷に意見を諮問。品川沖に台場の築造を開始
1854 年 2 月ペリーが再来航
1854 年 3 月 31 日日米和親条約を調印(嘉永 7 年 3 月 3 日)。下田・箱館を開く
1856 年 8 月 21 日初代総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任
1858 年 7 月 29 日日米修好通商条約を調印。貿易が始まる
1859 年横浜・長崎・箱館を開港

黒船来航のゆかりの地

ペリー公園(神奈川県横須賀市久里浜)——国書受け取りの地で、ペリー上陸記念碑が立っています。

浦賀(横須賀市)——艦隊が投錨した海域を望めます。浦賀奉行所跡も残ります。

お台場(東京都港区)——江戸湾防衛のために築かれた砲台で、第三台場が公園として現存します。

下田(静岡県)——和親条約で開かれた港で、ハリスが領事館とした玉泉寺があります。

年号の覚え方と混同しやすい点

1853 年(黒船来航)——よく使われる語呂合わせは「いやでござんす(1853)ペリーさん」です。翌 1854 年が日米和親条約、その 4 年後の 1858 年が日米修好通商条約、と 3 つを一続きで押さえると混乱しません。

混同しやすいのは次の点です。

混同正しくは
黒船来航で開国した開港は翌 1854 年の和親条約から。来航した年に条約は結ばれていない
和親条約で貿易が始まった和親条約は補給のための開港。貿易は 1858 年の修好通商条約から
ペリーが最初の外国船以前からロシア船・イギリス船などが来航している。艦隊で江戸湾へ入った点が違う
ペリーが下田に来た最初の来航地は浦賀。下田は和親条約で開かれた港

よくある質問

黒船来航はいつですか。

1853 年 7 月 8 日(嘉永 6 年 6 月 3 日)です。翌 1854 年 2 月に再来航しました。

黒船は何隻来たのですか。

1853 年は 4 隻です。うち 2 隻が蒸気軍艦、2 隻が帆走軍艦でした。翌年の再来航では隻数が増えています。

なぜ「黒船」と呼ぶのですか。

船体が黒く塗られていたためです。木造船の腐食を防ぐタールによるものでした。

ペリーはなぜ日本に来たのですか。

捕鯨船と蒸気船のための補給港を求め、あわせて漂流民の保護を取り決めるためです。

黒船来航で日本は開国したのですか。

1854 年の日米和親条約で下田・箱館が開かれましたが、これは補給のための開港です。貿易が始まるのは 1858 年の日米修好通商条約からです。

来航した人物についてはペリー、その後の交渉はタウンゼント・ハリス、思想への影響は尊王攘夷の記事をご覧ください。

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