男谷信友とは?幕末の剣聖と呼ばれた講武所の総帥

幕末の江戸に、「この人には勝てない」と全員が認めた剣客がいました。男谷信友——読み方は「おだに のぶとも」。通称は精一郎、渾名は剣聖です。
目次
男谷信友とは何をした人か
男谷信友は、幕臣であり、幕末最高の使い手とされた剣客です。流派は直心影流。
やったことは三つあります。
第一に、江戸中の剣客と立ち合い、負けなかったこと。 申し込まれた試合を断らず、江戸で彼と立ち合わなかった者はいないとまで言われました。
第二に、講武所を作り、率いたこと。 安政 3 年(1856 年)に幕府が開いた武芸の訓練機関で、信友は剣術部門の中心にいました。
第三に、竹刀の長さを決めたこと。 それまでばらばらだった竹刀を三尺八寸に統一しました。寸法を一つに決めるという発想そのものが、近代の剣道規格化の出発点になります(現行の一般用竹刀は 120cm 以下=およそ三尺九寸で、寸法そのものは同じではありません)。
寛政 10 年 1 月 1 日(1798 年 2 月 4 日)に生まれ、元治元年 7 月 16 日(1864 年 8 月 17 日)に没しました。満 66 歳です(生年には異説もあります)。
男谷信友の「一本は花を持たせる」勝ち方
信友の強さを伝える逸話は、勝ち方のほうにあります。
どんな相手とも三本勝負をして、そのうち一本は必ず相手に取らせたというのです。相手の面目を潰さないためです。
そして——どれほどの強敵でも、その「花」の一本より多くは取れなかった。
つまり相手は、勝ち一本を与えられていることに気づいてしまう。強さを見せつけずに、強さを分からせるという勝ち方です。信友が「剣聖」と呼ばれ、人格の面から語られてきた理由がここにあります。
同時代の三大道場は「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されましたが、信友はその評の外側に置かれることが多い人物です。道場の看板を競う世界とは、少し別のところにいました。
男谷信友の講武所と現代剣道への影響
黒船来航の後、幕府は武芸の立て直しに動きます。安政 3 年(1856 年)に開かれた講武所がそれで、信友は剣術の頭取並兼師範役として、後には講武所奉行として運営に当たりました。
ここで彼が採った方針が、その後を決めます。
形の稽古中心をやめ、防具を着けた竹刀試合を稽古の中心に据えたこと。そして竹刀の全長を三尺八寸に定めたことです。
流派ごとに寸法が違えば、他流と試合ができません。 規格を一つにしたことで、流派を越えた試合が成り立つようになりました。現代の剣道が「流派を問わず試合できる競技」になっている出発点は、ここにあります。 現行の寸法は後の時代に定め直されたもので、三尺八寸がそのまま残っているわけではありません。
男谷信友と勝海舟の関係
勝海舟の父・勝小吉は、もともと男谷家の出です。男谷家から勝家へ養子に入りました。したがって信友は、系図の上では勝海舟の従兄にあたります。
勝は剣を島田虎之助に学びましたが、その島田は信友の高弟です。勝の剣は、二重に男谷の系統から来ていることになります。
信友の門からは、ほかに榊原鍵吉が出ています。明治になって撃剣興行を打ち、廃れかけた剣術を興行として生き延びさせた人物です。
幕末から明治にかけての剣術の系譜をたどると、かなりの部分が男谷信友に行き着きます。
男谷信友の最期と墓
元治元年 7 月 16 日(1864 年 8 月 17 日)に没しました。満 66 歳です。
その三日後、京都では禁門の変(元治元年 7 月 19 日 = 1864 年 8 月 20 日)が起きています。幕末の戦乱が本格化する、まさに直前でした。信友は戊辰戦争を見ていません。幕末最高の使い手とされながら、実戦で人を斬った記録は残っていない剣客でした。
墓は東京都台東区の谷中霊園にあります。
男谷信友の年表
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