幕末の偉人

男谷信友とは?幕末の剣聖と呼ばれた講武所の総帥

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男谷信友とは?幕末の剣聖と呼ばれた講武所の総帥
男谷信友 肖像画 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

幕末の江戸に、「この人には勝てない」と全員が認めた剣客がいました。男谷信友——読み方は「おだに のぶとも」。通称は精一郎、渾名は剣聖です。

目次

男谷信友とは何をした人か

男谷信友は、幕臣であり、幕末最高の使い手とされた剣客です。流派は直心影流

やったことは三つあります。

第一に、江戸中の剣客と立ち合い、負けなかったこと。 申し込まれた試合を断らず、江戸で彼と立ち合わなかった者はいないとまで言われました。

第二に、講武所を作り、率いたこと。 安政 3 年(1856 年)に幕府が開いた武芸の訓練機関で、信友は剣術部門の中心にいました。

第三に、竹刀の長さを決めたこと。 それまでばらばらだった竹刀を三尺八寸に統一しました。寸法を一つに決めるという発想そのものが、近代の剣道規格化の出発点になります(現行の一般用竹刀は 120cm 以下=およそ三尺九寸で、寸法そのものは同じではありません)。

寛政 10 年 1 月 1 日(1798 年 2 月 4 日)に生まれ、元治元年 7 月 16 日(1864 年 8 月 17 日)に没しました。満 66 歳です(生年には異説もあります)。

男谷信友の「一本は花を持たせる」勝ち方

信友の強さを伝える逸話は、勝ち方のほうにあります。

どんな相手とも三本勝負をして、そのうち一本は必ず相手に取らせたというのです。相手の面目を潰さないためです。

そして——どれほどの強敵でも、その「花」の一本より多くは取れなかった。

つまり相手は、勝ち一本を与えられていることに気づいてしまう。強さを見せつけずに、強さを分からせるという勝ち方です。信友が「剣聖」と呼ばれ、人格の面から語られてきた理由がここにあります。

同時代の三大道場は「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評されましたが、信友はその評の外側に置かれることが多い人物です。道場の看板を競う世界とは、少し別のところにいました。

男谷信友の講武所と現代剣道への影響

黒船来航の後、幕府は武芸の立て直しに動きます。安政 3 年(1856 年)に開かれた講武所がそれで、信友は剣術の頭取並兼師範役として、後には講武所奉行として運営に当たりました。

ここで彼が採った方針が、その後を決めます。

形の稽古中心をやめ、防具を着けた竹刀試合を稽古の中心に据えたこと。そして竹刀の全長を三尺八寸に定めたことです。

流派ごとに寸法が違えば、他流と試合ができません。 規格を一つにしたことで、流派を越えた試合が成り立つようになりました。現代の剣道が「流派を問わず試合できる競技」になっている出発点は、ここにあります。 現行の寸法は後の時代に定め直されたもので、三尺八寸がそのまま残っているわけではありません。

男谷信友と勝海舟の関係

勝海舟の父・勝小吉は、もともと男谷家の出です。男谷家から勝家へ養子に入りました。したがって信友は、系図の上では勝海舟の従兄にあたります。

勝は剣を島田虎之助に学びましたが、その島田は信友の高弟です。勝の剣は、二重に男谷の系統から来ていることになります。

信友の門からは、ほかに榊原鍵吉が出ています。明治になって撃剣興行を打ち、廃れかけた剣術を興行として生き延びさせた人物です。

幕末から明治にかけての剣術の系譜をたどると、かなりの部分が男谷信友に行き着きます。

男谷信友の最期と墓

元治元年 7 月 16 日(1864 年 8 月 17 日)に没しました。満 66 歳です。

その三日後、京都では禁門の変(元治元年 7 月 19 日 = 1864 年 8 月 20 日)が起きています。幕末の戦乱が本格化する、まさに直前でした。信友は戊辰戦争を見ていません。幕末最高の使い手とされながら、実戦で人を斬った記録は残っていない剣客でした。

墓は東京都台東区の谷中霊園にあります。

男谷信友の年表

出来事
1798 年 2 月 4 日幕臣の家に生まれる(寛政 10 年 1 月 1 日)
1810〜20 年代団野真帆斎に直心影流を学ぶ
1830〜40 年代江戸で剣名を高め、島田虎之助榊原鍵吉らを育てる
1856 年講武所が開設され、剣術の頭取並兼師範役となる(安政 3 年)
1850 年代後半竹刀の全長を三尺八寸に定める
1864 年 8 月 17 日没。満 66 歳(元治元年 7 月 16 日)

弟子は島田虎之助榊原鍵吉、同時代の道場主は千葉周作斎藤弥九郎桃井春蔵です。

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