ペリーは何をした人?黒船で来航した提督の目的と死因を解説

嘉永 6 年(1853 年)の夏、江戸湾の入口に 4 隻の軍艦が現れました。率いていたのが、アメリカ海軍提督マシュー・カルブレイス・ペリーです。
目次
ペリーは何をした人か
ペリーがしたことは、ひとことで言えば日本に「開国か、戦争か」を突きつけたことです。
それまでにも外国船は日本に来ています。しかしペリーが違ったのは、大統領の国書を持ち、軍艦の火力を背景に、期限を切って回答を迫った点でした。幕府は 200 年以上続けてきた対外方針を、この一件をきっかけに転換します。
日本側から見れば黒船来航は突然の衝撃でしたが、ペリーの側から見れば周到に準備された国家的な事業でした。
なぜアメリカは日本に来たのか
理由は主に 3 つあります。
第一に、捕鯨です。 当時のアメリカにとって鯨油は照明と機械油の要で、太平洋には多くの捕鯨船が出ていました。遭難した船員の保護と、水や食料の補給地が必要でした。
第二に、蒸気船の燃料です。 蒸気船は石炭を大量に食います。アメリカから中国へ向かう航路を開くには、途中に石炭を積める港が要る。日本列島はその位置にありました。
第三に、中国貿易です。 欧州列強が清に進出するなか、アメリカも太平洋航路を確保したかった。日本はその通り道でした。
ペリー自身は蒸気船による海軍の近代化を推し進めた人物で、「蒸気海軍の父」とも呼ばれます。石炭を必要とする新しい海軍が、日本の港を必要としたという筋道は、彼の経歴と一続きです。
浦賀はどこにあるのか
ペリーが最初に姿を現した浦賀は、現在の神奈川県横須賀市にあたります。三浦半島の東側、東京湾の入口にあたる場所です。
江戸湾に出入りする船を検める浦賀奉行所が置かれており、外国船が接触する窓口になっていました。
国書の受け渡しが行われたのは、そこから南に下った久里浜です。現在も久里浜にはペリー上陸を記念する公園と碑があります。
浦賀の位置が重要なのは、そこが江戸のすぐ喉元だったことです。艦隊は湾内を測量して回り、江戸の街から見える位置まで進みました。幕府が受けた圧力は、地理そのものによって作られていました。この経験が、お台場の砲台建設につながります。
1853 年の来航と、翌年の条約
嘉永 6 年(1853 年)、ペリーは 4 隻を率いて来航しました。うち 2 隻が蒸気船で、船体を黒く塗った姿から黒船と呼ばれます。
ペリーは大統領フィルモアの国書を幕府に渡し、返答を得るために翌年また来ると告げて去りました。
そして安政元年(1854 年)、今度はさらに多くの艦を伴って戻ってきます。交渉の末に結ばれたのが日米和親条約です。下田と箱館の 2 港を開き、漂流民を保護し、アメリカ船に薪水や食料を供給することが定められました。
これは通商条約ではありません。貿易の全面開放は、のちの日米修好通商条約を待つことになります。それでも、鎖国という枠組みそのものが崩れたという一点で、この条約の意味は決定的でした。
「開国してください」は言っていない
ペリーの台詞として広く知られる「開国してください」という言葉があります。これは後世の創作から広まったもので、史実の記録ではありません。
実際の交渉はもっと硬いものでした。ペリーは国書の受け取りを拒まれた際に上陸も辞さない構えを見せ、艦隊を江戸湾の奥へ進めて測量を行っています。丁重な依頼ではなく、武力の存在を見せながらの要求というのが実態に近い姿です。
もっとも、彼が一方的に威圧しただけかというとそうでもありません。贈答品として蒸気機関車の模型や電信機を持ち込み、実演してみせています。力を示すと同時に、近代技術の魅力を見せる。その両方が交渉の手段でした。
ペリーの死因と最期
日本との条約を結んで帰国したペリーは、遠征の公式記録『日本遠征記』の編纂にあたりました。
そして安政 5 年(1858 年)3 月、ニューヨークで亡くなります。63 歳でした。晩年は関節の病と肝臓の疾患に苦しんでおり、その衰弱が死につながったと伝えられます。日本が本格的に開国へ動き出していく、まさにその時期のことでした。
日本を開かせた当人は、その後の日本の激動を見ることなく世を去ったことになります。
ペリーの年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1794 年 | ロードアイランド州ニューポートに生まれる |
| 1809 年 | 海軍に入る。兄オリバーは米英戦争の英雄 |
| 1840 年代 | 蒸気船の導入を進め、海軍の近代化に関わる |
| 1852 年 | 東インド艦隊司令長官として日本へ向かう |
| 1853 年 | 浦賀に来航。久里浜で国書を渡す(黒船来航) |
| 1854 年 | 再来航し、日米和親条約を締結。下田・箱館を開く |
| 1856 年 | 『日本遠征記』の編纂に取りかかる |
| 1858 年 | ニューヨークで死去。63 歳 |
あわせて読みたい

橋本左内とは?安政の大獄に散った福井の俊英の生涯と名言
数え15歳で『啓発録』を著し、福井藩の藩政改革と将軍継嗣問題に奔走した橋本左内。満25歳で安政の大獄に処刑された俊英の生涯と、その言葉を史実に沿って解説します。

伊東甲子太郎とは?新選組を割って油小路に散った理論家を解説
学識と剣を備えて新選組の参謀となりながら、勤王の志ゆえに袂を分かった伊東甲子太郎。御陵衛士を組織し、油小路で謀殺されるまでの生涯を史実に沿って解説します。

河井継之助とは?長岡藩を率いてガトリング砲で戦った男を解説
小藩・長岡を率い、武装中立を掲げて新政府と交渉し、決裂すると最新兵器で戦った家老・河井継之助。北越戦争での奮戦と、傷を負って山を越え41歳で果てた最期を史実に沿って解説します。
