榊原鍵吉とは?剣術を見世物にして生き残らせた最後の剣客

剣術が滅びかけたとき、それを見世物にして救った男がいます。榊原鍵吉。「最後の剣客」と呼ばれます。
目次
榊原鍵吉とは何をした人か
鍵吉は、幕末から明治の剣客であり、直心影流の使い手です。
その仕事は三つに分かれます。
第一に、幕府の剣術教官として。 安政 3 年(1856 年)の講武所開設にあたり、剣術教授方に就きました。
第二に、撃剣興行を始めた人として。 明治 6 年(1873 年)、剣術の試合を有料の見世物として公開しました。これが剣術を延命させます。
第三に、兜割りの人として。 明治天皇の前で鉄の兜に刀で深い切込みを入れたという一件で知られます。
文政 13 年 11 月 5 日——西暦では 1830 年 12 月 19 日に生まれ、明治 27 年(1894 年)9 月 11 日に没しました。
榊原鍵吉が男谷精一郎の門から講武所へ進むまで
鍵吉は数えで十三歳のとき、男谷精一郎の門に入りました。
男谷は当時の江戸で最高の剣客とされた人物です。勝海舟の親戚にあたり、人格でも技でも群を抜いていたと伝えられます。
鍵吉はここで直心影流を修め、奥義に達しました。
安政 3 年(1856 年)、幕府は講武所——武術と洋式軍事を教える機関を設けます。阿部正弘の政策の一つです。
鍵吉は男谷の推薦で、その剣術教授方になりました。幕府公認の剣術教官という立場です。
慶応 2 年(1866 年)に講武所が廃止されると、遊撃隊の頭取を務めました。
明治に剣術が滅びかけた理由
明治になり、鍵吉の世界は消えました。
武士という身分が無くなり、廃刀令で刀を差すことが禁じられました。剣術は「もう役に立たない技」になったのです。
軍隊は銃で戦います。警察も剣術を必須としません。道場に人が来ない。剣術の師範は、食えなくなりました。
このとき何が起きたか。道場が次々に潰れ、流派が絶えていったのです。
数百年かけて積み上げられた技術体系が、二十年で消える危機にありました。
榊原鍵吉の撃剣興行とは
鍵吉が打った手は、思いつきにくいものでした。
剣術を、金を取って見せる興行にしたのです。
明治 6 年(1873 年)、彼は撃剣会を組織し、官許を得て撃剣興行を始めます。同年 4 月 11 日、浅草左衛門河岸で第一回が開かれました。
中身は、剣士が客の前で試合をするというものです。相撲興行と同じ形式で、木戸銭を取り、番付を組み、勝負を見せる。
これは剣術の世界からは白眼視されました。武士の技を見世物にするのか、と。
しかし鍵吉の判断は、結果として正しかったのです。
理由は単純です。興行になれば、剣士が稼げます。稼げれば稽古を続けられる。続けられれば技が伝わる。興行化は剣客の生活を支え、剣術の存続と再普及に大きく寄与しました。
明治の剣術は、この見世物を通って生き延びました。のちに警察が剣術を採用し、学校教育に入り、現在の剣道につながっていく——その細い橋を、鍵吉が架けたことになります。
榊原鍵吉の兜割り
鍵吉の名を最も有名にしているのが、兜割りです。
明治 20 年(1887 年)、明治天皇の前で武術の演武が行われました。このとき鍵吉は、鉄の兜に刀で斬りつけ、深い切込みを入れたと伝えられます。兜鉢を二つに割断したわけではなく、伝承上の計測値は長さ三寸五分・深さ五分ほどの切込みです。
当時すでに五十代後半です。そして刀で鉄を斬るのは、本来できることではありません。
この一件は、「剣術は無用の技ではない」ということを、目に見える形で示しました。
刀・兜の種類や寸法など、細部には異説がありますが、天覧の場で兜割りが行われたこと自体は広く伝えられています。
榊原鍵吉の最期
維新後、鍵吉は下谷車坂に道場を開き、剣を教え続けました。
生活は豊かではなかったと伝えられます。幕臣であり、新政府に仕えなかったからです。撃剣興行も、いつまでも当たり続けたわけではありません。
明治 27 年(1894 年)9 月 11 日に没しました。満 63 歳です。
「最後の剣客」という呼び名は、彼が最強だったからではありません。武士の技として剣を修め、それが無用になった時代を生き、それでも剣を手放さなかった——その位置が「最後」なのです。
榊原鍵吉の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1830 年 12 月 19 日 | 生まれる(文政 13 年 11 月 5 日) |
| 1840 年代前半 | 数え 13 歳で男谷精一郎の門に入り、直心影流を修める |
| 1856 年 | 講武所の剣術教授方となる(男谷の推薦) |
| 1866 年 | 講武所廃止後、遊撃隊頭取を務める |
| 明治初期 | 下谷車坂に道場を開く |
| 1873 年 4 月 11 日 | 撃剣会を組織し、浅草左衛門河岸で第一回撃剣興行 |
| 1887 年 | 天覧の演武で兜割り(鉄兜への深い切込み)を行ったと伝えられる |
| 1894 年 | 没。満 63 歳 |
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