桃井春蔵とは?「位の桃井」と呼ばれた士学館の四代目

「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」——幕末の江戸で三大道場を並べたこの言い回しの、「位」の側にいた人です。四代・桃井春蔵。
目次
桃井春蔵とは何をした人か
桃井春蔵(四代・直正)は、鏡新明智流の宗家であり、道場・士学館の主です。
その生涯は三つに分かれます。
第一に、士学館を継いだこと。 嘉永 5 年(1852 年)、二十代で四代目を継承しました。千葉周作の玄武館、斎藤弥九郎の練兵館と並ぶ、江戸三大道場の一角です。
第二に、土佐の志士を育てたこと。 武市半平太が塾頭を務め、岡田以蔵も門下にいました。
第三に、戊辰の開戦に反対したこと。 幕府軍の遊撃隊頭取に就きながら、鳥羽・伏見の戦いが始まる前に致仕届を出しています。
文政 8 年(1825 年)に生まれ、明治 18 年(1885 年)12 月 8 日に没しました。享年は数えの 61です。
「位の桃井」と呼ばれた桃井春蔵の剣
幕末の江戸で、剣術道場の格を言い表すのに使われたのが「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」という評でした。
「位」は、勝ち負けの外側にある評価軸です。剣の形の美しさ、対峙したときの落ち着き、道場の空気。士学館はそこを看板にしていました。
桃井家は代々この道場を継いでおり、四代目の直正は、駿河国沼津藩士・田中豊秋の次男として生まれ、婿養子として家名を継いだ人物です。
桃井春蔵の士学館と土佐勤王党
士学館の門人で最もよく知られているのは、土佐から出てきた武市半平太でしょう。武市はこの道場で塾頭を務めました。 江戸の道場で他藩の者が塾頭になるのは、実力が抜けていた証拠です。
そして武市とともに江戸へ出てきたのが、岡田以蔵でした。のちに「人斬り」と呼ばれることになる男も、この道場の門をくぐっています。
江戸の道場は、幕末の政治結社の入口でもありました。 土佐勤王党の中核は士学館の人脈と重なり、新選組の中核は試衛館の人脈と重なる。剣を習いに来た若者が、そのまま政治の側へ流れていく構造が、この時代にはありました。
桃井春蔵はなぜ戊辰戦争を降りたのか
慶応 3 年(1867 年)、桃井は幕府軍の遊撃隊頭取に任じられます。剣術の腕を買われての人事です。
しかし戊辰戦争が始まる前に、桃井は致仕届を出しています。 慶応 3 年 12 月 28 日(1868 年 1 月 22 日)とされ、前月とする説もあります。鳥羽・伏見の開戦は慶応 4 年 1 月 3 日(1868 年 1 月 27 日)なので、戦端が開かれる前に降りていたことになります。その開戦の日には旧同僚に襲われ、離脱は決定的になりました。
その後は新政府側で大坂の治安維持にあたり、浪花隊の監軍兼撃剣師範を務めています。幕府方の隊長から、新政府方の指導者へ。 節操がないと見ることもできますが、内戦そのものに反対した人物の行動としては筋が通っています。
桃井春蔵の晩年と最期
明治になると、剣術は急速に廃れました。武士がいなくなれば、剣で食う理由もなくなるからです。同じ時期、榊原鍵吉は撃剣興行という見世物の形で剣術を生き延びさせようとしています。
桃井が選んだのは別の道でした。堺県の下級官吏を経て、明治 8 年(1875 年)から誉田八幡宮(現在の大阪府羽曳野市)の祠官となります。そして神社の道場で、撃剣と儒学を教えました。
剣を「武」ではなく「学び」として残すという選択です。
明治 18 年(1885 年)12 月 8 日に没しました。
桃井春蔵の年表
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