幕末の偉人

天璋院篤姫とは?薩摩から大奥に入り徳川家を守った生涯

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天璋院篤姫とは?薩摩から大奥に入り徳川家を守った生涯

実家が江戸城を攻めに来たとき、彼女は江戸城の側に立ちました。天璋院篤姫。薩摩から大奥に入った女性です。

目次

天璋院篤姫とは何をした人か

篤姫は、13 代将軍・徳川家定の正室です。夫の死後に落飾し、天璋院と号しました。

その生涯は三つに分けられます。

第一に、薩摩から嫁いだ正室として。 島津斉彬の養女という身分を整えて大奥に入りました。薩摩と将軍家を結ぶ縁組です。

第二に、大奥を率いた人として。 家定の死後、二十代前半で未亡人となり、以後三十年近く徳川家の内側にいました。

第三に、徳川家を守った人として。 戊辰戦争のとき、攻め寄せる薩摩軍の側に生家があるという立場で、徳川家の存続を働きかけました。

天保 6 年(1836 年)に生まれ、明治 16 年(1883 年)に没しています。

天璋院篤姫が分家から大奥へ入るまで

篤姫は、薩摩藩主家の分家である今和泉島津家・島津忠剛の娘として生まれました。藩主の娘ではありません。

彼女を引き上げたのが、藩主・島津斉彬です。斉彬は篤姫を自分の養女とし、さらに公家の近衛家の養女という形を重ねました。

これは身分を整えるための手続きです。将軍の正室になるには、それだけの家格が必要だったからです。

安政 3 年(1856 年)、篤姫は江戸城の大奥に入りました。

天璋院篤姫と将軍継嗣問題

篤姫の輿入れは、しばしば「将軍継嗣問題のために薩摩が送り込んだ」と説明されます。ただし、そのままでは成り立たない説明です。

縁談そのものは、継嗣問題が本格化する前から進んでいたとする研究があります。もともと別の話だった、という見方です。

一方、輿入れの後に継嗣争いが激化すると、当時の幕府は家定に子がなく、次を誰にするかで割れていました。斉彬は聡明で年長の一橋慶喜——のちの徳川慶喜を推す一派で、篤姫を通じてその支持を期待したとも見られています。

「縁組の当初の目的」と「あとから期待された役割」は、分けて考える必要があります。

そして篤姫が実際にどこまで動いたのかは、史料の上ではっきりしません。継嗣争いに勝ったのは、大老・井伊直弼が推した紀州の徳川家茂でした。

天璋院篤姫は二年で未亡人になった

安政 5 年(1858 年)、家定が急死します。結婚から二年足らずでした。

篤姫は剃髪し、天璋院と号します。まだ二十代前半です。

同じ年、養父の島津斉彬も急死しました。彼女を大奥へ送り出した本人がいなくなり、以後は自分の立場を自分で決めることになります。

天璋院篤姫と和宮の関係

文久 2 年(1862 年)、次の将軍・家茂の正室として、皇女和宮が京から下ってきました。

大奥に、二人の「先代と当代の正室」が並ぶことになります。

京の作法を通そうとする和宮と、武家の慣習を守る天璋院のあいだには摩擦がありました。当初は対立していたと伝えられます。

しかし慶応 2 年(1866 年)に家茂が死に、幕府そのものが揺らぎ始めると、二人の立場は同じものになりました。どちらも、徳川家に残された女性です。

天璋院篤姫と江戸城無血開城

慶応 4 年(1868 年)、新政府軍が江戸へ迫ります。

このとき天璋院は、西郷隆盛らに書状を送りました。徳川家の存続と、慶喜の助命を願う内容です。

書き手は薩摩の女性であり、受け取るのは薩摩の指導者でした。生家の縁を、生家が攻める相手を守るために使ったことになります。

和宮も朝廷に対して同じことをしています。勝海舟と西郷の会談が語られる裏で、二人の女性が別のルートから手を打っていたわけです。

江戸城は戦火を受けずに明け渡されました。

天璋院篤姫の維新後の三十年と最期

新政府から薩摩へ帰るよう勧められても、天璋院は東京に残りました。

彼女がしたのは、二つです。

徳川宗家の跡継ぎを育てること。 宗家を継いだ徳川家達の養育に当たりました。少年だった家達を、彼女が後見したのです。

大奥にいた女性たちの身の振りを世話すること。 幕府が消えれば、大奥の女性たちは職も家も失います。天璋院は、その世話に自分の財を使ったと伝えられます。

「守るものが無くなったあとも守り続けた」——彼女の後半生は、そういう時間でした。

天璋院篤姫の墓

明治 16 年(1883 年)に没しました。満 47 歳です。

墓は上野の寛永寺にあります。夫・徳川家定の隣です。薩摩ではなく、徳川の墓所を選んだことになります。

天璋院篤姫の年表

出来事
1836 年今和泉島津家・島津忠剛の娘として生まれる
1850 年代前半島津斉彬の養女、次いで近衛家の養女となる
1856 年13 代将軍・徳川家定の正室として大奥に入る(縁談は継嗣問題より前から進行)
1858 年家定が急死。剃髪して天璋院と号す。島津斉彬も同年に没する
1862 年和宮が大奥に入る
1868 年西郷隆盛らへ書状を送り、江戸城無血開城に尽力
明治期東京に残り、徳川家達の養育と大奥の女性たちの世話に当たる
1883 年没。満 47 歳。上野寛永寺に葬られる

夫は徳川家定、同じく大奥から徳川家を守ったのは和宮、書状の相手は西郷隆盛です。

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