幕末の偉人

和宮とは?将軍に嫁いだ皇女の生涯と江戸城無血開城

約5分で読めます
和宮とは?将軍に嫁いだ皇女の生涯と江戸城無血開城
和宮親子内親王 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

婚約者のいる皇女が、政治のために将軍へ嫁がされました。和宮。そして彼女は、その夫の家を守るために生涯を使うことになります。

目次

和宮とは何をした人か

和宮は、仁孝天皇の第八皇女です。諱は親子内親王。のちに落飾して静寛院宮と号しました。

その生涯は、三つの局面で語られます。

第一に、公武合体の象徴として。 朝廷と幕府を結びつけるため、14 代将軍・徳川家茂に降嫁しました。政略結婚そのものです。

第二に、家茂の妻として。 この結婚は、当人たちにとっては幸福なものだったと伝えられます。しかし家茂は数年で死にます。

第三に、徳川家を守った人として。 戊辰戦争のとき、実家である朝廷に対して徳川家の存続を働きかけ江戸城の無血開城に力を尽くしました。

弘化 3 年(1846 年)に生まれ、明治 10 年(1877 年)に没しています。

和宮の降嫁と公武合体

和宮には、幼いころから婚約者がいました。有栖川宮熾仁親王です。嘉永 4 年(1851 年)、数え 6 歳、満では 5 歳のときのことです。

ところが桜田門外の変で大老を失った幕府は、権威の立て直しを迫られていました。そこで打ち出されたのが公武合体——朝廷と幕府が手を結んでいることを、目に見える形で示す策です。

その最も分かりやすい形が、皇女を将軍に嫁がせることでした。

和宮は強く拒みました。京から出たことのない皇女が、婚約を破棄され、江戸へ下るのです。しかし朝廷と幕府の交渉は続き、最終的に彼女は承知します。攘夷の実行を幕府に約束させるという条件が付いていました。

文久元年(1861 年)、和宮は中山道を通って江戸へ下ります。行列は数十キロにおよび、沿道の宿場は総出で対応したと記録されています。翌文久 2 年(1862 年)、江戸城で家茂と結婚しました。

和宮と徳川家茂の結婚生活

この結婚は、政略の産物としては例外的にうまくいったと伝えられます。

和宮と家茂は、年齢の近い夫婦でした。京の作法を通そうとする和宮と、大奥の慣習とのあいだで摩擦はありましたが、二人の仲は睦まじかったとされます。

家茂は、長州征討のため大坂へ向かいました。そして慶応 2 年(1866 年)、大坂城で病没します。

和宮に届いたのは、注文していた西陣織の反物でした。土産として頼んでいたものが、遺品として届いたのです。この話は広く知られていますが、逸話として伝えられるもので、細部には諸説あります。

夫の死を受けて、和宮は落飾し、静寛院宮と号しました。

和宮と江戸城無血開城

慶応 4 年(1868 年)、戊辰戦争が始まります。新政府軍は東へ進み、江戸城総攻撃の期日が定められました。

このとき、和宮は徳川家の側に立ちます。

彼女は朝廷に対し、徳川家の存続と、慶喜の助命を繰り返し嘆願しました。皇女という立場は、新政府にとって無視しにくいものです。13 代将軍・徳川家定の正室だった天璋院篤姫も、薩摩の出身という立場から同様に動いています。

江戸城は戦火を受けずに明け渡されます。勝海舟西郷隆盛の会談がしばしば語られますが、その前段で朝廷側に働きかけていたのが和宮でした。

なお、新政府軍の東征大総督は、かつて和宮の婚約者だった有栖川宮熾仁親王です。

和宮の最期と墓

維新後、和宮は東京に住みました。徳川家の人々との交流を続けたと伝えられます。

明治 10 年(1877 年)9 月、療養先の箱根で没しました。満 31 歳です。

遺言により、芝の増上寺に、家茂と並べて葬られました。京へ帰ることも、有栖川宮のもとへ戻ることもなく、彼女は夫の隣を選んでいます。

和宮の棺から出た一枚の写真

昭和 33 年(1958 年)、増上寺の徳川家墓所が改葬されることになり、学術調査が行われました。

このとき和宮の棺から、一枚の湿板写真が見つかったと報告されています。写っていたのは、若い男性の姿でした。家茂ではないかとされますが、確定していません。

そして報告によれば、その写真は取り出したのちに像が消えてしまいました。湿板写真は、定着処理が不十分だと光で像が失われます。

三十一年の生涯で、彼女が棺に入れさせたものが何だったのか——それは、もう確かめようがありません。

和宮の年表

出来事
1846 年仁孝天皇の第八皇女として生まれる
1851 年有栖川宮熾仁親王と婚約(数え 6 歳・満 5 歳)
1861 年公武合体のため中山道を下って江戸へ
1862 年14 代将軍・徳川家茂と結婚
1866 年家茂が大坂城で没する。落飾して静寛院宮と号す
1868 年戊辰戦争で徳川家の存続を朝廷に嘆願、江戸城無血開城に尽力
1877 年箱根で没。満 31 歳。増上寺に家茂と並んで葬られる

夫は徳川家茂、先代の将軍は徳川家定、開城の交渉は勝海舟で扱っています。

あわせて読みたい