和宮とは?将軍に嫁いだ皇女の生涯と江戸城無血開城

婚約者のいる皇女が、政治のために将軍へ嫁がされました。和宮。そして彼女は、その夫の家を守るために生涯を使うことになります。
目次
和宮とは何をした人か
和宮は、仁孝天皇の第八皇女です。諱は親子内親王。のちに落飾して静寛院宮と号しました。
その生涯は、三つの局面で語られます。
第一に、公武合体の象徴として。 朝廷と幕府を結びつけるため、14 代将軍・徳川家茂に降嫁しました。政略結婚そのものです。
第二に、家茂の妻として。 この結婚は、当人たちにとっては幸福なものだったと伝えられます。しかし家茂は数年で死にます。
第三に、徳川家を守った人として。 戊辰戦争のとき、実家である朝廷に対して徳川家の存続を働きかけ、江戸城の無血開城に力を尽くしました。
弘化 3 年(1846 年)に生まれ、明治 10 年(1877 年)に没しています。
和宮の肖像

和宮の降嫁と公武合体
和宮には、幼いころから婚約者がいました。有栖川宮熾仁親王です。嘉永 4 年(1851 年)、数え 6 歳、満では 5 歳のときのことです。
ところが桜田門外の変で大老を失った幕府は、権威の立て直しを迫られていました。そこで打ち出されたのが公武合体——朝廷と幕府が手を結んでいることを、目に見える形で示す策です。
その最も分かりやすい形が、皇女を将軍に嫁がせることでした。
和宮は強く拒みました。京から出たことのない皇女が、婚約を破棄され、江戸へ下るのです。しかし朝廷と幕府の交渉は続き、最終的に彼女は承知します。攘夷の実行を幕府に約束させるという条件が付いていました。
文久元年(1861 年)、和宮は中山道を通って江戸へ下ります。行列は数十キロにおよび、沿道の宿場は総出で対応したと記録されています。翌文久 2 年(1862 年)、江戸城で家茂と結婚しました。
和宮と徳川家茂の結婚生活
この結婚は、政略の産物としては例外的にうまくいったと伝えられます。
和宮と家茂は、年齢の近い夫婦でした。京の作法を通そうとする和宮と、大奥の慣習とのあいだで摩擦はありましたが、二人の仲は睦まじかったとされます。
家茂は、長州征討のため大坂へ向かいました。そして慶応 2 年(1866 年)、大坂城で病没します。
和宮に届いたのは、注文していた西陣織の反物でした。土産として頼んでいたものが、遺品として届いたのです。この話は広く知られていますが、逸話として伝えられるもので、細部には諸説あります。
夫の死を受けて、和宮は落飾し、静寛院宮と号しました。
和宮と江戸城無血開城
慶応 4 年(1868 年)、戊辰戦争が始まります。新政府軍は東へ進み、江戸城総攻撃の期日が定められました。
このとき、和宮は徳川家の側に立ちます。
彼女は朝廷に対し、徳川家の存続と、慶喜の助命を繰り返し嘆願しました。皇女という立場は、新政府にとって無視しにくいものです。13 代将軍・徳川家定の正室だった天璋院篤姫も、薩摩の出身という立場から同様に動いています。
江戸城は戦火を受けずに明け渡されます。勝海舟と西郷隆盛の会談がしばしば語られますが、その前段で朝廷側に働きかけていたのが和宮でした。
なお、新政府軍の東征大総督は、かつて和宮の婚約者だった有栖川宮熾仁親王です。
和宮の最期と墓
維新後、和宮は東京に住みました。徳川家の人々との交流を続けたと伝えられます。
明治 10 年(1877 年)9 月、療養先の箱根で没しました。満 31 歳です。
遺言により、芝の増上寺に、家茂と並べて葬られました。京へ帰ることも、有栖川宮のもとへ戻ることもなく、彼女は夫の隣を選んでいます。
和宮の棺から出た一枚の写真
昭和 33 年(1958 年)、増上寺の徳川家墓所が改葬されることになり、学術調査が行われました。
このとき和宮の棺から、一枚の湿板写真が見つかったと報告されています。写っていたのは、若い男性の姿でした。家茂ではないかとされますが、確定していません。
そして報告によれば、その写真は取り出したのちに像が消えてしまいました。湿板写真は、定着処理が不十分だと光で像が失われます。
三十一年の生涯で、彼女が棺に入れさせたものが何だったのか——それは、もう確かめようがありません。
和宮の年表
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