幕末の偉人

徳川家定とは?病弱と噂された13代将軍の実像を解説

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徳川家定とは?病弱と噂された13代将軍の実像を解説
徳川家定 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

篤姫の夫であり、黒船来航の年に将軍となった人物です。徳川家定。13 代将軍でありながら、病弱で政務を執れなかったと語られてきました。

目次

徳川家定とは何をした人か

家定は、幕末の入り口に将軍だった人物です。

在職は嘉永 6 年(1853 年)から安政 5 年(1858 年)まで。黒船来航のまさにその年に将軍となり、日本が開国へ向かう激動の時期を、名目上は最高権力者として過ごしました。

しかし、家定が自ら政治を主導した形跡は、ほとんどありません。彼の治世で歴史に残ることといえば、大老に井伊直弼を据えたこと、そして自らの後継をめぐる争い、いわゆる将軍継嗣問題です。

文政 7 年(1824 年)、12 代将軍・家慶の子として生まれます。

病弱と噂された将軍

家定について、最もよく語られるのは、その病弱さと暗愚さです。

幼い頃から病がちで、人前に出ることを好まなかったと伝えられます。また、言動が不安定で、将軍としての務めを果たせる状態ではなかった、という記録も残ります。脳性の障害や、何らかの神経の病を抱えていたのではないか、とする見方もあります。

ただし、これらの人物像には注意が必要です。家定を暗愚とする評の多くは、後の時代や、立場を異にする者によって伝えられたものだからです。将軍にふさわしくないという印象を、意図的に強調した可能性もあります。

菓子作りを好んだ、という逸話が知られています。これを、政務を執れない将軍の奇行として語ることもできますが、見方を変えれば、権力の重圧のなかで自分なりの慰めを持っていた人物、とも読めます。家定の実像は、伝えられる像ほど単純ではないのかもしれません。

篤姫との結婚

家定の正室が、天璋院篤姫です。

篤姫は、薩摩の分家に生まれ、島津斉彬の養女となり、さらに公家の近衛家の養女という形を経て、家定に嫁ぎました。この結婚は、薩摩藩が幕政に影響を及ぼそうとする政略の一環でもありました。

しかし、家定と篤姫が夫婦として過ごした時間は、ごく短いものでした。結婚から二年足らずで、家定は世を去ります。

篤姫はその後、夫を失った大奥で、幕府の終焉を見届けることになります。夫の在位も、夫婦の時間も短かった一方で、篤姫のほうは幕末から明治までを生き抜き、歴史に名を残しました。

将軍継嗣問題

家定に子はなく、しかも自身が病弱でした。そのため、後継を誰にするかが、早くから幕府の大問題となります。将軍継嗣問題です。

候補は二人でした。一人は、聡明で年長の一橋慶喜——のちの徳川慶喜。もう一人は、血筋の近い紀州の徳川慶福——のちの徳川家茂です。

この争いは、単なる後継争いではありませんでした。慶喜を推す一橋派と、慶福を推す南紀派の対立は、幕府の主導権をめぐる政治闘争そのものでした。

決着をつけたのは、大老の井伊直弼を中心とする南紀派でした。慶福が選ばれ、彼は徳川家茂として次の将軍となります。そして、これに反対した者たちが安政の大獄で処断されていきます。

なお、この決定を井伊の独断とみるのは正確ではありません。家定自身が慶福を望み、井伊と相談して内定したとする史料解釈も有力です。病弱と評された将軍が、後継の選定では自らの意思を示していた可能性があります。

短い最期

安政 5 年(1858 年)、家定は死去します。満 34 歳(数えで 35)でした。

その死は、将軍継嗣問題が決着したのとほぼ同じ時期でした。次の将軍が決まった直後に、当の将軍が世を去ったことになります。

在位わずか五年。しかもその大半を、開国の激動と、自らの後継争いのなかで過ごしました。歴史のなかで、家定は主役として動いた将軍ではありません。しかし、彼が将軍だった時期に、幕末の対立の構図はほぼ出そろっていました。

徳川家定の年表

出来事
1824 年12 代将軍・家慶の子として生まれる
1853 年黒船来航の年に 13 代将軍となる
1856 年天璋院篤姫を正室に迎える
1858 年井伊直弼を大老に据える。将軍継嗣問題が決着
1858 年死去。満 34 歳

継嗣問題の当事者は徳川慶喜徳川家茂、大老は井伊直弼で扱っています。

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