幕末の偉人

島津久光とは?藩主にならず薩摩を動かした国父の生涯

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島津久光とは?藩主にならず薩摩を動かした国父の生涯
島津久光 肖像写真(1867 年・四侯会議のころ) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

藩主になっていないのに、薩摩藩を動かした人物がいます。島津久光。「国父」と呼ばれました。

目次

島津久光とは何をした人か

久光は、薩摩藩の実権を握った人物です。ただし藩主ではありません。兄・島津斉彬の異母弟で、藩主は自分の子である忠義でした。

その働きは三つに分かれます。

第一に、率兵上京を行ったこと。 文久 2 年(1862 年)、兵を率いて京都と江戸へ上り、幕府に政治改革を迫りました。大名でもない人間が兵を動かしたという点で、前例のない行動です。

第二に、生麦事件と薩英戦争の当事者になったこと。 帰国の行列中に生麦事件が起こり、その後の賠償と犯人処罰をめぐる交渉の決裂を経て、翌年の薩英戦争に至ります。

第三に、維新後の改革に反発したこと。 廃藩置県、断髪、廃刀——新政府がやったことのほとんどに、久光は反対しました。

文化 14 年(1817 年)に生まれ、明治 20 年(1887 年)に没しました。

島津久光はなぜ藩主にならずに実権を握れたのか

安政 5 年(1858 年)、兄の島津斉彬が急死します。

藩主の座に就いたのは、久光の子・忠義でした。久光自身は藩主になっていません。

しかし実権は久光が握りました。藩主の父であり、先代藩主の弟という立場です。「国父」という呼称は、この位置を指します。

制度上の役職がないまま、事実上の最高権力者だったわけです。この曖昧さは、彼の行動の自由度と、同時に不安定さの両方の原因になりました。

島津久光の率兵上京と生麦事件

文久 2 年(1862 年)、久光は兵を率いて京都へ上り、さらに江戸へ向かいます。

目的は、幕政の改革を要求することでした。徳川慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に据えさせ、参勤交代の緩和を実現させました。文久の改革です。

大名でもない人間が、兵を連れて政治要求を通した——これは幕府の権威が既に相当に落ちていたことの証拠でもあります。

そしてその帰り道、事件が起きます。

文久 2 年 8 月(西暦では 1862 年 9 月)、生麦村(現在の横浜市鶴見区)で、久光の行列を横切ったイギリス人が薩摩藩士に斬られました。生麦事件です。

イギリスは犯人の処罰と賠償を要求しました。薩摩藩はこれを拒みます。

島津久光と薩英戦争

文久 3 年(1863 年)、イギリス艦隊が鹿児島湾に来ました。薩英戦争です。

戦闘は数日で、双方に損害が出ました。鹿児島の市街地は砲撃で焼け、イギリス側も旗艦の艦長らを失っています。

そして戦後、薩摩とイギリスは急速に接近しました。

理由は、双方が相手の実力を認めたからです。薩摩は西洋の軍事力を体感し、イギリスは薩摩の抵抗力を認識しました。以後、薩摩はイギリスから武器と技術を導入する方向へ転じます。

ただし長州と同じ経路ではありません。長州は攘夷の実行として下関で外国船を砲撃しましたが、薩摩の交戦は生麦事件の外交紛争から来ています。斉彬の時代から西洋技術の導入も進んでいました。薩英戦争が実力差を認識させ、戦後の接近と技術導入を加速させたという筋です。

島津久光は討幕に乗り気ではなかった

久光の立場は、一貫して公武合体でした。

朝廷と幕府が協調し、そこに有力諸藩が加わって国政を運営する。幕府を倒すのではなく、幕府を改造して自分たちが入るという構想です。

八月十八日の政変で長州を京都から追ったのは、会津と薩摩です。久光は長州の急進的な攘夷路線を敵視していました。

では、なぜ薩摩は討幕に回ったのか。

西郷隆盛大久保利通らが、久光の意向を超えて動いた面があります。薩長同盟の交渉は小松帯刀・西郷・木戸孝允らが担い、大久保も薩摩側の政策形成を支えました。そして薩摩は武力討幕へ舵を切ります。

久光が最後まで望んだのは、徳川を含む諸侯会議でした。慶応 3 年(1867 年)の四侯会議にも出ています。その構想は実現しませんでした。

島津久光の維新への反発

明治になり、久光は新政府の改革に次々と反対しました。

廃藩置県。 藩を無くすということは、島津家が薩摩を治めなくなることです。久光は激しく反発しました。 断髪と廃刀。 武士の姿を捨てることに反対しました。 四民平等。 身分制度の解体に反対しました。

そして彼は、生涯ちょんまげを結い、和装を通しました。

明治 6 年(1873 年)に内閣顧問、のち左大臣に就きますが、すぐに辞めています。

新政府を作ったのは薩摩の人間です。その薩摩の実権者だった久光が、その新政府に最も強く反対した——この捻れが、彼の後半生でした。

西郷隆盛大久保利通の両方に、久光は不信を抱いていたと伝えられます。二人は、彼が使った家臣だったからです。

島津久光の最期

明治 20 年(1887 年)12 月 6 日に没しました。満 70 歳です。

西郷隆盛は 1877 年に、大久保利通は 1878 年に死んでいます。久光は二人より十年長く生き、憲法発布の二年前まで存命でした。

墓は鹿児島市の島津家墓地にあります。

島津久光の年表

出来事
1817 年島津斉興の子として生まれる(島津斉彬の異母弟)
1858 年斉彬の死後、子の忠義が藩主となり、久光が実権を握る
1862 年率兵上京。幕政改革と参勤交代の緩和を実現させる
1862 年 9 月帰国の行列中に生麦事件が起こる
1863 年賠償・処罰交渉の決裂を経て薩英戦争。以後イギリスに接近する
1863 年八月十八日の政変で長州を京都から追う
1867 年四侯会議に出るが、諸侯会議の構想は実現せず
明治期廃藩置県・断髪・廃刀に反発。生涯ちょんまげと和装を通す
1887 年没。満 70 歳

兄は島津斉彬、使った家臣は西郷隆盛大久保利通小松帯刀です。

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