木戸孝允(桂小五郎)とは?維新の三傑の生涯をわかりやすく解説

西郷隆盛・大久保利通と並んで「維新の三傑」に数えられる木戸孝允。幕末には桂小五郎の名で知られ、長州藩を代表する政治家として、討幕から新国家の建設までを支え続けました。
目次
木戸孝允(桂小五郎)の生い立ちと「逃げの小五郎」
木戸孝允は天保4年(1833年)、長州藩医の家に生まれ、のちに桂家を継ぎました。吉田松陰に学び、また江戸では剣術道場で腕を磨いています。
危機にあって無理に戦わず、機を見て身を退く現実的な判断から、後に「逃げの小五郎」とも称されました。これは臆病さではなく、生き延びて大局を動かすことを重んじた知略の表れです。
木戸孝允の写真

木戸孝允が薩長同盟を結んだ経緯
長州が幕府と対立を深めるなか、桂は長州側の代表として薩摩との提携交渉に臨みました。犬猿の仲だった両藩を結ぶ薩長同盟は、彼にとって苦渋に満ちた決断でもありましたが、討幕への大きな転機となります。
木戸孝允は何をした人か(新政府の礎)
維新後、木戸孝允と名を改めた彼は、新政府の中枢で国づくりに携わりました。新しい国家の方針を示した「五箇条の御誓文」の成立にも深く関わったとされます。
廃藩置県をはじめとする大改革を進めるなかで、急進と漸進のあいだで思い悩むことも多くありました。理想と現実の板挟みのなかで、なお国の行く末を案じ続けた人物です。
木戸孝允の死因といつ死んだのか
過労と心労を重ねた木戸は、西南戦争のさなかの1877年5月26日に病で世を去りました。満43歳です。維新を共に成し遂げた仲間が敵味方に分かれて戦う光景を、彼はどのような思いで見ていたのでしょうか。
臨終の際、西郷の名を呼んだと伝えられます。維新の三傑のうち、木戸がまず病に斃れ、その4か月後に西郷が城山で果て、翌年に大久保が暗殺されました。 わずか1年のあいだに3人が世を去ったことになります。
桂小五郎から木戸孝允へ名前が変わった理由
同一人物でありながら二つの名で知られるため、混乱されやすいところです。整理しておきます。
桂小五郎は幕末期の名です。長州藩医・和田家に生まれ、幼くして桂家の養子となったことによります。禁門の変に敗れて長州が朝敵とされたのち、幕府に追われる身となった時期には変名を用いて潜伏していました。
木戸孝允と改めたのは1865年ごろ、藩の許しを得てのことです。維新後はこの名で通し、新政府の要職を歴任しました。したがって、幕末の事績は「桂小五郎」、明治の事績は「木戸孝允」で語られることが多くなっています。
「逃げの小五郎」という異名も幕末期のものです。禁門の変では、あえて戦線を離れて生き延びました。池田屋事件の際にも、いったん現場を離れていて難を逃れたと伝えられます。その場で斬り死にするより、生きて藩を動かすことを選ぶ。 この判断が、長州に指導者を残しました。
木戸孝允の日記
木戸が残した『木戸孝允日記』は、幕末維新期の一次史料としてきわめて価値の高いものです。
新政府の中枢にいた人物が、日々の政務・会議・人物評を書き残しているためです。政策決定の舞台裏や、要人たちの関係、そして木戸自身の逡巡や苛立ちまでが記録されており、公式記録では見えない維新政府の実像を伝えてくれます。
日記からうかがえるのは、理想と現実のあいだで揺れ続けた人物像です。急進的な改革には慎重論を唱え、しかし旧習の温存にも我慢がならない。西郷や大久保との意見の食い違いに悩む記述も多く残ります。神経質で、責任感が強く、思い悩む人。 それが日記に映る木戸孝允です。
木戸孝允の主な功績
| 施策 | 内容 |
|---|---|
| 薩長同盟 | 長州側の当事者として調印。討幕の前提をつくった |
| 五箇条の御誓文 | 原案の起草・修正に深く関与したとされる |
| 版籍奉還・廃藩置県 | 中央集権化を推進。長州藩を率いる立場から率先して版籍を返上した |
| 岩倉使節団 | 副使として欧米を巡り、憲法や議会制度に強い関心を寄せた |
| 立憲政体の主張 | 早い段階から憲法制定と議会開設の必要を説いた |
とりわけ立憲政治への志向は、西郷・大久保とは異なる木戸の特色です。欧米視察で議会制度を目にして以降、日本にも憲法と議会が必要だと繰り返し訴えました。その実現を見ることなく世を去りましたが、後の自由民権運動や憲法制定へつながる流れの先にいた人物といえます。
木戸孝允の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1833年 | 長州藩医・和田家に生まれる。のちに桂家の養子となる |
| 1849年 | 吉田松陰に兵学を学ぶ |
| 1852年 | 江戸へ出て剣術を学び、練兵館の塾頭となる |
| 1864年 | 禁門の変。長州が朝敵とされ、潜伏生活に入る |
| 1865年ごろ | 木戸孝允と改名 |
| 1866年 | 薩長同盟を長州側代表として結ぶ |
| 1868年 | 五箇条の御誓文の成立に関与 |
| 1871年 | 岩倉使節団の副使として欧米へ |
| 1877年5月26日 | 西南戦争のさなかに病没。満43歳 |
よくある質問
木戸孝允は何をした人ですか。
長州藩の指導者として薩長同盟を結び、維新後は五箇条の御誓文や廃藩置県など新政府の制度づくりを担いました。
桂小五郎と木戸孝允は同じ人ですか。
同じ人物です。幕末は桂小五郎を名乗り、慶応年間に木戸姓へ改めました。
なぜ「逃げの小五郎」と呼ばれたのですか。
池田屋事件や禁門の変で難を逃れ、幾度も追及をかわして生き延びたためです。剣は斎藤弥九郎の練兵館で塾頭を務めた腕でした。
木戸孝允はどのように死んだのですか。
明治 10 年(1877 年)5 月 26 日、西南戦争のさなかに京都で病没しました。満 43 歳です。
維新を担った人々の群像は、幕末の偉人の各記事でたどれます。
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