幕末の文化

参勤交代とは?目的と費用をわかりやすく解説

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参勤交代とは?目的と費用をわかりやすく解説
橋を渡る大名行列を描いた錦絵(歌川広重) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

大名行列が街道を進む光景は、江戸時代を象徴する場面のひとつです。この行列を生んだ制度が参勤交代でした。260年続いた江戸幕府の統治を、これほど的確に支えた仕組みはありません。

目次

参勤交代とは

参勤交代とは、全国の大名が1年おきに江戸と自分の領国を往復し、江戸で将軍に仕えることを義務づけた制度です。

項目内容
制度化1635年(外様大名)/1642年(譜代大名)
定めた人物三代将軍 徳川家光(武家諸法度の改定による)
内容大名は1年ごとに江戸と領国を交代で住む
妻子江戸に常住させる(事実上の人質)
廃止1862年に緩和、1868年の幕府崩壊で消滅

「参勤」は江戸へ出て将軍に仕えること、「交代」は領国へ戻ることを指します。大名は人生の半分を江戸で過ごしたことになります。

なお関東近国の大名や、対馬・松前など遠隔地の大名には、半年交代や3年交代といった例外もありました。

参勤交代の目的

もっとも多い誤解が「大名の財力を削るために作られた制度」というものです。結果としてそうなったのは事実ですが、それが当初の目的だったとは考えにくいとする見方が有力です。

制度本来の目的は、次の点にありました。

将軍と大名の主従関係を確認すること。 参勤交代の本質は軍役、つまり将軍への奉公です。大名が定期的に江戸へ参上して将軍に拝謁することで、上下関係が形として繰り返し確認されました。行列が武装した軍勢の体裁をとっていたのも、これが軍役だからです。

妻子を江戸に置くこと。 これは事実上の人質でした。反乱を起こせば江戸の家族が失われます。大名を物理的に縛るより、はるかに確実な抑止力でした。

大名を領国に居続けさせないこと。 半分の期間を江戸で過ごさせれば、領国で独自の勢力を固める余地は狭まります。

財力の消耗は「結果」であって「目的」ではない。 費用の負担は確かに諸藩を苦しめましたが、幕府が意図的にそれを狙ったとする同時代の史料は乏しく、後世に広まった解釈と考えられています。

参勤交代の費用はどれくらいかかったのか

とはいえ、負担が重かったことは間違いありません。藩の年間支出の1割から3割が参勤交代に費やされたとする試算があります。

費用の内訳は次のようなものでした。

  • 道中の費用……宿代、食費、人足や馬の雇い賃。行列の規模が大きいほど膨らみます
  • 江戸屋敷の維持費……上屋敷・中屋敷・下屋敷を構え、常時多くの家臣を住まわせる必要がありました
  • 体面の維持……行列の装備や衣装を整える費用。見栄えを落とせば藩の格が下がると見なされました

もっとも重いのは道中よりも江戸屋敷の維持費だったとされます。大名は江戸に恒常的な「もうひとつの家」を持たされ続けたわけです。

この負担を軽くするため、諸藩はさまざまな工夫をしました。行列の人数を国境の手前で増やし、通過後に減らす。宿場での値切り交渉をする。そもそも道中は質素にして、人目のある区間だけ体裁を整える。見栄と実利の折り合いをつける知恵が働いていました。

参勤交代の行列はどんな規模だったのか

行列の人数は藩の格によって大きく異なりました。

藩の規模行列のおよその人数
加賀藩(100万石)2000〜4000人
中規模の藩(10万石前後)数百人
小藩(1万石台)数十人

移動の速度は1日およそ30〜40キロメートル。江戸から加賀(金沢)まで12日前後、薩摩(鹿児島)からは40日以上を要しました。

道中では、行列が通る際に庶民は道を譲り、場合によっては土下座を求められました。ただしすべての通行人に土下座が強制されたわけではありません。旅人は道端に寄れば足りることが多く、時代劇の描写はかなり誇張されています。

参勤交代がもたらしたもの

制度の副産物として、日本の社会は大きく変わりました。

街道と宿場の発達。 五街道が整備され、宿場町が栄えました。参勤交代という定期的な大量移動が、交通インフラを育てたのです。

経済の循環。 諸藩が江戸で大量の消費をしたことで、江戸は世界有数の百万都市に成長しました。同時に、地方の物産が江戸へ集まり、貨幣経済が全国へ浸透します。

文化の全国的な交流。 家臣たちは江戸と国元を往復するなかで、言葉・学問・技術・流行を運びました。方言の壁を越えた共通の文化圏が生まれた背景には、この人の移動があります。

藩財政の慢性的な逼迫。 一方で、多くの藩が借金を抱えることになりました。幕末に藩政改革が各地で試みられた背景には、この構造的な財政難があります。

参勤交代はいつ廃止されたのか

制度が揺らぐのは幕末です。1862年(文久2年)の文久の改革で、参勤の間隔が3年に1度へ緩和され、妻子の帰国も認められました。

背景には、黒船来航以後の情勢があります。海防のために各藩が領国で軍備を整える必要が生じ、江戸に人と金を縛りつけておく余裕がなくなったのです。

しかしこの緩和は、幕府の統制力そのものを弱めました。 大名が領国に腰を据えられるようになったことで、雄藩は独自の力を蓄えます。長州や薩摩が幕府に対抗できる実力を持ちえたのは、この変化と無関係ではありません。

幕府は1864年に一度は旧制度へ戻そうとしますが、もはや従わない藩が相次ぎました。制度は形骸化したまま、1868年の幕府崩壊とともに消滅します。

230年にわたって大名を縛り続けた制度の終わりは、幕府の終わりとほぼ同時でした。

よくある質問

参勤交代とは何ですか。 全国の大名が1年おきに江戸と領国を往復し、江戸で将軍に仕えることを義務づけた制度です。1635年に三代将軍・徳川家光が制度化しました。

参勤交代の目的は何ですか。 将軍と大名の主従関係を確認する軍役であること、妻子を江戸に置いて人質とすること、大名を領国に居続けさせないことが主な目的です。財力を削ることは結果であって、当初の目的ではないと考えられています。

参勤交代の費用はどれくらいですか。 藩の年間支出の1割から3割にのぼったとされます。道中の費用より、江戸屋敷を維持する費用のほうが重いものでした。

参勤交代は誰が始めましたか。 三代将軍・徳川家光が、1635年の武家諸法度の改定で制度化しました。

参勤交代はいつなくなりましたか。 1862年の文久の改革で大幅に緩和され、1868年の幕府崩壊とともに消滅しました。

幕末に幕府の統制が緩んでいく流れは黒船来航から、大名たちが動いた先は戊辰戦争の記事でどうぞ。

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