小松帯刀とは?西郷大久保の上にいた薩摩藩家老の生涯

西郷隆盛と大久保利通の、上にいた人物がいます。小松帯刀。薩摩藩の家老です。そして満 34 歳で死にました。
目次
小松帯刀とは何をした人か
帯刀は、薩摩藩の家老です。名は小松清廉。
その働きは三つに分かれます。
第一に、薩摩藩の藩政を率いたこと。 二十代で家老となり、島津久光のもとで藩の実務を統べました。
第二に、薩長同盟を実現させたこと。 京都の自邸が、薩摩と長州の会談の場になりました。
第三に、大政奉還を進めたこと。 薩摩の側から、政権返上の実現に動いています。
天保 6 年(1835 年)に生まれ、明治 3 年(1870 年)に没しました。
小松帯刀の肖像

小松帯刀と西郷・大久保の家格の違い
薩摩藩の維新を語るとき、名前が挙がるのは西郷隆盛と大久保利通です。
しかしこの二人は、藩の中では下級の武士でした。西郷は御小姓与、大久保も同格です。藩の意思決定に、本来は加われない身分です。
小松帯刀は違います。彼は喜入の領主・肝付家に生まれ、家老を出す家格の小松家の養子となりました。藩の最上級の家柄です。
二十代で家老に就き、藩政の実務を握りました。
つまり構図はこうです。帯刀は家老として西郷・大久保より上位に立ち、両者と連携して藩政と外交を調整しました。藩の頂点には島津久光と藩主・忠義がおり、帯刀が単独で決めていたわけではありません。
そして帯刀の早世は、後世の維新史で彼の存在感が薄くなった一因と考えられます。
京都の小松帯刀邸で決まったこと
慶応 2 年(1866 年)、薩長同盟が成立します。
薩摩と長州は、それまで敵同士でした。禁門の変で長州を京都から追ったのは薩摩と会津です。その両者が手を結ぶというのが、この同盟です。
会談の場になったのが、京都の小松帯刀の邸宅でした。木戸孝允と西郷隆盛が、ここで向き合っています。
藩の家老の屋敷が使われたということは、この会談が薩摩藩の公式な意思だったことを意味します。志士たちの私的な密約ではありません。藩を代表する人間が場を提供したわけです。
坂本龍馬や中岡慎太郎の周旋が語られることが多い同盟ですが、薩摩側で藩を動かしたのは帯刀でした。
小松帯刀と大政奉還、そして経済
慶応 3 年(1867 年)、帯刀は大政奉還の実現に向けて動きます。
武力で幕府を倒すか、政権を返上させるか。薩摩藩の中でも意見は割れていました。帯刀は土佐の山内容堂の建白を後押しする側に立ちました。
同時に、彼は経済にも手をつけています。
兵庫商社——五代友厚らと構想した、株式会社に近い形の商社です。また薩摩藩の留学生派遣や、グラバーを通じた武器・艦船の調達にも関わりました。
軍事と外交と経済を、同時に見ていたことになります。
小松帯刀の死因と三十四歳での最期
明治になり、帯刀は新政府の参与や外国事務局の職に就きます。
しかし、長くありませんでした。
明治 3 年(1870 年)、病で没します。満 34 歳でした。
死因は病で、足の腫れ物や脚気などが伝えられますが、確定した記述はありません。
この死が、薩摩の維新の形を変えました。
帯刀がいれば、薩摩の調整は家老である彼を通ります。彼が死んだことで、薩摩を代表する顔は西郷と大久保に絞られていきました。
そして数年後、その二人が西南戦争で敵同士になります。
「もし小松帯刀が生きていたら、西郷と大久保は決裂しなかったのではないか」——繰り返し語られる問いですが、反証のしようがない仮定です。西郷と大久保は 1870 年より前から既に薩摩の中心にいたので、帯刀の不在だけで決裂を説明することはできません。
小松帯刀の墓
墓は鹿児島県日置市にあります。地元では顕彰され、銅像も立っています。
知名度は西郷や大久保に遠く及びません。しかし薩長同盟の会談が彼の屋敷で行われたという一点で、幕末の分岐点に立っていた人物です。
小松帯刀の年表
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