幕末の偉人

小松帯刀とは?西郷大久保の上にいた薩摩藩家老の生涯

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小松帯刀とは?西郷大久保の上にいた薩摩藩家老の生涯
小松帯刀 肖像(1835〜1870) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

西郷隆盛大久保利通の、上にいた人物がいます。小松帯刀。薩摩藩の家老です。そして満 34 歳で死にました。

目次

小松帯刀とは何をした人か

帯刀は、薩摩藩の家老です。名は小松清廉。

その働きは三つに分かれます。

第一に、薩摩藩の藩政を率いたこと。 二十代で家老となり、島津久光のもとで藩の実務を統べました。

第二に、薩長同盟を実現させたこと。 京都の自邸が、薩摩と長州の会談の場になりました。

第三に、大政奉還を進めたこと。 薩摩の側から、政権返上の実現に動いています。

天保 6 年(1835 年)に生まれ、明治 3 年(1870 年)に没しました。

小松帯刀と西郷・大久保の家格の違い

薩摩藩の維新を語るとき、名前が挙がるのは西郷隆盛大久保利通です。

しかしこの二人は、藩の中では下級の武士でした。西郷は御小姓与、大久保も同格です。藩の意思決定に、本来は加われない身分です。

小松帯刀は違います。彼は喜入の領主・肝付家に生まれ、家老を出す家格の小松家の養子となりました。藩の最上級の家柄です。

二十代で家老に就き、藩政の実務を握りました。

つまり構図はこうです。帯刀は家老として西郷・大久保より上位に立ち、両者と連携して藩政と外交を調整しました。藩の頂点には島津久光と藩主・忠義がおり、帯刀が単独で決めていたわけではありません。

そして帯刀の早世は、後世の維新史で彼の存在感が薄くなった一因と考えられます。

京都の小松帯刀邸で決まったこと

慶応 2 年(1866 年)、薩長同盟が成立します。

薩摩と長州は、それまで敵同士でした。禁門の変で長州を京都から追ったのは薩摩と会津です。その両者が手を結ぶというのが、この同盟です。

会談の場になったのが、京都の小松帯刀の邸宅でした。木戸孝允と西郷隆盛が、ここで向き合っています。

藩の家老の屋敷が使われたということは、この会談が薩摩藩の公式な意思だったことを意味します。志士たちの私的な密約ではありません。藩を代表する人間が場を提供したわけです。

坂本龍馬中岡慎太郎の周旋が語られることが多い同盟ですが、薩摩側で藩を動かしたのは帯刀でした。

小松帯刀と大政奉還、そして経済

慶応 3 年(1867 年)、帯刀は大政奉還の実現に向けて動きます。

武力で幕府を倒すか、政権を返上させるか。薩摩藩の中でも意見は割れていました。帯刀は土佐の山内容堂の建白を後押しする側に立ちました。

同時に、彼は経済にも手をつけています。

兵庫商社——五代友厚らと構想した、株式会社に近い形の商社です。また薩摩藩の留学生派遣や、グラバーを通じた武器・艦船の調達にも関わりました。

軍事と外交と経済を、同時に見ていたことになります。

小松帯刀の死因と三十四歳での最期

明治になり、帯刀は新政府の参与や外国事務局の職に就きます。

しかし、長くありませんでした。

明治 3 年(1870 年)、病で没します。満 34 歳でした。

死因は病で、足の腫れ物や脚気などが伝えられますが、確定した記述はありません。

この死が、薩摩の維新の形を変えました。

帯刀がいれば、薩摩の調整は家老である彼を通ります。彼が死んだことで、薩摩を代表する顔は西郷と大久保に絞られていきました。

そして数年後、その二人が西南戦争で敵同士になります。

もし小松帯刀が生きていたら、西郷と大久保は決裂しなかったのではないか」——繰り返し語られる問いですが、反証のしようがない仮定です。西郷と大久保は 1870 年より前から既に薩摩の中心にいたので、帯刀の不在だけで決裂を説明することはできません。

小松帯刀の墓

墓は鹿児島県日置市にあります。地元では顕彰され、銅像も立っています。

知名度は西郷や大久保に遠く及びません。しかし薩長同盟の会談が彼の屋敷で行われたという一点で、幕末の分岐点に立っていた人物です。

小松帯刀の年表

出来事
1835 年喜入領主・肝付家に生まれ、のち家老格の小松家の養子となる
1860 年代前半二十代で薩摩藩の家老となり、島津久光のもとで藩政を率いる
1866 年京都の自邸が薩長同盟の会談の場になる
1867 年大政奉還の実現に動く。兵庫商社の構想にも関与
1868 年新政府の参与・外国事務局の職に就く
1870 年病没。満 34 歳

同じ薩摩の同時代人は西郷隆盛大久保利通島津久光、同盟そのものは薩長同盟で扱っています。

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