幕末の偉人

大久保利通とは?功績と子孫をわかりやすく解説

約5分で読めます
大久保利通とは?功績と子孫をわかりやすく解説

情に厚い西郷隆盛としばしば対比されるのが、冷静沈着な実務家・大久保利通です。同じ薩摩に生まれ、ともに維新を成し遂げた2人は、やがて国家の進路をめぐって袂を分かつことになります。

目次

大久保利通の生い立ちと西郷との出会い

大久保利通は天保元年(1830年)、薩摩藩士の家に生まれました。幼なじみの西郷とともに藩政の中枢に関わり、討幕への流れを主導していきます。

行動派の西郷に対し、大久保は緻密な計算と粘り強い交渉を得意としました。情と理、2人の異なる資質が組み合わさったことが、薩摩の力を最大限に引き出したといえます。

大久保利通の肖像画

大久保利通の肖像画
大久保利通像(安藤仲太郎 筆/東京国立博物館蔵・撮影 Daderot, CC0)出典: Wikimedia Commons CC0

大久保利通は何をした人か(廃藩置県)

薩長同盟を経て倒幕が実現すると、大久保は新政府の中枢を担いました。彼が主導した最大の改革のひとつが、廃藩置県です。

藩を廃して全国を中央政府が直接治める体制へと切り替えるこの改革は、武士の世の根幹を覆す大事業でした。大久保は反発を抑えながら、冷徹なまでの実行力でこれを断行していきます。

大久保利通が進めた殖産興業

その後、内務卿として実権を握った大久保は、近代産業の育成(殖産興業)に力を注ぎました。官営工場の建設や交通網の整備など、富国強兵を支える基盤づくりを次々と進めていきます。

理想を語るより、現実の制度を組み上げていく。大久保のそうした手腕が、明治国家の骨格を形づくりました。

大久保利通の最期

近代化を急ぐ大久保の手法は、特権を失っていく士族たちの強い反発を招きます。盟友・西郷が西南戦争に敗れた翌1878年、大久保は東京・紀尾井坂で不平士族に襲撃され、命を落としました。

維新を共に夢見た2人が、相次いで非業の最期を遂げたことは、新時代の産みの苦しみの大きさを物語っています。

大久保利通はなぜ暗殺されたのか

襲撃は1878年5月14日の朝、赤坂の仮御所へ向かう馬車が紀尾井坂下の清水谷にさしかかったところで起きました。実行したのは島田一郎ら、石川県などの士族6名です。世に紀尾井坂の変と呼ばれます。大久保は満47歳(数えで49)でした。

彼らは犯行にあたって斬奸状を用意しており、そこで大久保を「有司専制」、つまり一部の官僚が政治を私物化していると批判しています。維新の実務を一手に握り、士族の特権を次々と取り上げていった大久保は、彼らにとって旧秩序を破壊した張本人でした。

前年に西郷が西南戦争で斃れ、その前年には木戸孝允が病死しています。維新の三傑が3年のうちに相次いで世を去ったことになります。大久保の墓は東京の青山霊園にあります。

大久保利通の子孫と麻生太郎とのつながり

大久保の子孫には、近現代の政治史に名を残す人物が並びます。元首相の麻生太郎は、大久保利通の玄孫(やしゃご)にあたります。

系譜をたどると次のようになります。

世代人物
本人大久保利通
牧野伸顕(牧野家に入り、外交官・内大臣として昭和初期の宮中を支えた)
牧野雪子(吉田茂に嫁ぐ)
曾孫吉田和子(麻生太賀吉に嫁ぐ)
玄孫麻生太郎

つまり大久保利通と吉田茂は、直接の血縁ではなく姻戚という関係になります。吉田茂は牧野伸顕の娘婿であり、大久保の孫娘の夫にあたる人物です。

このほか、長男の大久保利和、三男の大久保利武はいずれも官界に進みました。孫の大久保利春は商社の役員を務め、ロッキード事件で有罪判決を受けた人物として知られています。

大久保利通の主な功績

施策内容
版籍奉還・廃藩置県藩を廃し、中央政府が全国を直接治める体制へ切り替えた
岩倉使節団への参加欧米を実地に見て、近代国家の制度設計を持ち帰った
地租改正米の物納から金納へ改め、国家財政の基盤を安定させた
内務省の設置内務卿として、地方行政・警察・殖産を統括する権力機構を築いた
殖産興業官営工場の建設や交通網の整備を進め、産業の土台をつくった

大久保利通はどんな性格だったのか

同時代の証言が一致して伝えるのは、寡黙で、近寄りがたいほどの威厳です。会議で大久保が沈黙したまま座っているだけで場が引き締まった、部下は面と向かうと震えたといった逸話が数多く残っています。人望で人を動かす西郷とは対照的に、大久保は職掌と論理で組織を動かしました。

彼が好んで揮毫した言葉に「為政清明」があります。政治を行うにあたっては清らかで明白であれ、という意味で、彼の姿勢をよく表しています。

暗殺後、その財産を調べたところ、多額の借財が残っていたと伝えられます。政府の事業に私財を投じていたためとされ、私腹を肥やす人物ではなかったことを示す逸話としてしばしば語られます。

大久保利通の年表

出来事
1830年薩摩藩士の子として鹿児島に生まれる
1866年薩長同盟が成立。倒幕へ動き出す
1868年明治維新。新政府の中枢に入る
1871年廃藩置県を断行。岩倉使節団の副使として欧米へ
1873年帰国後、征韓論をめぐり西郷らと対立。内務卿に就任
1877年西南戦争。西郷が敗れる
1878年5月14日紀尾井坂で暗殺される。満47歳

よくある質問

大久保利通は何をした人ですか。

薩摩出身の維新の中心人物で、廃藩置県や殖産興業を主導し、明治政府の骨格を作りました。

大久保利通はなぜ暗殺されたのですか。

明治 11 年(1878 年)5 月 14 日、紀尾井坂で不平士族に襲われました。西南戦争後の士族の不満と、強権的とみられた政治手法が背景にあります。満 47 歳でした。

麻生太郎は大久保利通の子孫ですか。

はい。大久保の血筋は牧野伸顕・吉田茂を経て麻生太郎へつながります。

大久保利通の最大の功績は何ですか。

廃藩置県による中央集権化と、殖産興業による近代産業の基礎作りが挙げられます。

維新を担った人々の群像は、幕末の偉人の各記事でどうぞ。

あわせて読みたい