幕末の偉人

五代友厚とは?大阪経済を作った薩摩藩士の生涯をわかりやすく解説

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五代友厚とは?大阪経済を作った薩摩藩士の生涯をわかりやすく解説
五代友厚 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

東の渋沢栄一、西の五代友厚。 そう並べられる人物です。維新後の大阪を、経済都市として組み立て直しました。

目次

五代友厚とは何をした人か

五代の仕事は、大阪に近代的な経済の器を作ったことに尽きます。

具体的には、商工業者が集まって意見をまとめる商法会議所(のちの商工会議所)、株式を売買する株式取引所、商業を教える学校。これらを大阪に設けました。

取引の場と、まとめ役の組織と、人を育てる学校。 経済が回るために必要な三つを、数年のうちに次々と用意しました。

天保 6 年(1836 年)、薩摩藩士の家に生まれます。

海を見た薩摩藩士

若い五代は、安政 4 年(1857 年)から藩の命で長崎の海軍伝習所に学びます。さらに文久 2 年(1862 年)には上海へ渡りました。外国の港と貿易の実態を、早い時期に自分の目で見た人物です。

慶応元年(1865 年)、薩摩藩はイギリスへ使節と留学生を送ります。国禁を犯す密航でした。五代は留学生ではなく、この一行の副使として引率する側で渡英し、ヨーロッパの産業と商業を実地に見ます。

帰国した彼が担ったのは、戦ではなく交易でした。 薩摩藩のために武器や船を調達し、貿易の実務を回します。同じ薩摩でも、西郷隆盛大久保利通とは役割がまったく違いました。

大阪を選ぶ

明治維新後、五代は新政府にも出仕しますが、まもなく官を辞して大阪へ移ります

当時の大阪は苦境にありました。江戸時代を通じて「天下の台所」だった商都は、幕府や諸藩への貸付が維新で焦げつき、経済が大きく傷んでいたのです。

五代はここで、鉱山経営や製藍など複数の事業を興しつつ、同時に商人たちを組織する側に回りました。

個々の商売を立てるだけでは都市は戻らない。 取引の仕組みと、意見をまとめる場と、次の世代を育てる学校が要る。彼が作ったのは、その三つです。

会議所と取引所が明治 11 年(1878 年)、商業講習所が明治 13 年(1880 年)。この学校は、のちの大阪の商業教育につながっていきます。

開拓使官有物払下げ事件

明治 14 年(1881 年)、五代は激しい批判を浴びます。

黒田清隆率いる開拓使が、官有の施設や事業を極めて安く払い下げようとした相手が、五代らの関係する会社だったためです。

同じ薩摩出身者どうしの取引と見られ、世論は「政商」として五代を糾弾しました。払下げは中止となり、この騒動は大隈重信が政府を追われる明治十四年の政変の背景の一つとなります。

大阪経済への貢献と、この事件の汚名。 五代の評価が長く定まらなかった理由が、ここにあります。近年になって、大阪の経済基盤を作った功績のほうが改めて評価されるようになりました。

最期

明治 18 年(1885 年)、五代は死去します。満 49 歳でした。

大阪の経済団体や取引所は、その後も続きます。本人が短命だったにもかかわらず、作った器のほうが長く残ったわけです。

大阪市内には五代の銅像が立ち、墓は大阪の阿倍野墓地にあります。

五代友厚の年表

出来事
1836 年薩摩藩士の家に生まれる
1857 年長崎海軍伝習所に学ぶ
1862 年上海へ渡る
1865 年薩摩藩の遣英使節の副使としてイギリスへ密航
1860 年代後半薩摩藩の貿易実務を担う
1869 年頃官を辞して大阪へ移る
1878 年大阪商法会議所・大阪株式取引所の設立に尽力
1880 年大阪商業講習所の設立に関わる
1881 年開拓使官有物払下げ事件で批判を浴びる
1885 年死去。満 49 歳

薩摩の人々は西郷隆盛大久保利通、明治政府の成り立ちは明治維新で扱っています。

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