大村益次郎とは?村医者の子が日本陸軍を作るまでの生涯を解説

医者から、日本陸軍の設計者へ。 これほど職業が飛ぶ生涯も珍しいでしょう。大村益次郎、もとの名を村田蔵六といいます。
目次
大村益次郎とは何をした人か
大村の仕事は、二つに絞れます。
一つは、戊辰戦争で新政府の軍務を担ったこと。 上野の彰義隊を攻める作戦を指揮し、わずか一日で決着させました。
もう一つは、近代的な軍隊の構想を残したこと。 武士だけの軍ではなく、身分によらず徴集する国民軍を構想し、その基礎づくりに着手しました。日本陸軍の創始者と呼ばれます。
村医者の子から適塾へ
周防国(現在の山口県)の村医者の家に生まれます。武士ではありません。生年は文政 7 年(1824 年)とも文政 8 年(1825 年)とも伝えられ、確定していません。
医学を志した蔵六は、大坂の緒方洪庵の適塾に入り、塾頭にまでなりました。同じ適塾からは福沢諭吉も出ています。
ここで彼が身につけたのは、医学だけではありませんでした。オランダ語です。そして当時、オランダ語の書物には西洋の兵学が含まれていました。
語学ができる者が、たまたま兵学書を読めてしまった。 大村の転身は、この一点から始まります。
宇和島から江戸へ、そして長州へ
蔵六の語学力に目をつけたのが、伊予・宇和島藩でした。藩に招かれた彼は、見たこともない蒸気船の製造に関わります。設計図と洋書だけを頼りにした仕事でした。楠本イネにオランダ語を教えたのも、この宇和島でのことです。
その後、江戸に出て私塾を開き、幕府の洋学研究機関でも教えます。ただし幕臣になったわけではありません。宇和島藩士の身分を保ったまま、幕府の蕃書調所や講武所で教える立場を兼ねていました。
万延元年(1860 年)、故郷の長州藩が彼を召し抱えます。四国連合艦隊との戦いより前のことで、この時点ですでに藩は西洋の軍事を理解する人材を必要としていました。
第二次長州征討
慶応 2 年(1866 年)、幕府は再び長州へ兵を向けます。
このとき大村は、石州口の方面を指揮しました。兵力で劣る長州が、幕府軍を撃退します。
理由は装備と戦術でした。長州は西洋式の銃を装備し、密集隊形ではなく散開して戦います。旧来の陣立てで臨んだ幕府軍は、これに対応できませんでした。
この敗北が、幕府の権威を決定的に傷つけます。 大村の名は、ここで一気に高まりました。
上野戦争――一日で終わらせた男
慶応 4 年(1868 年)、江戸は無血開城しましたが、彰義隊と呼ばれる旧幕臣の一団が上野に立てこもります。
新政府軍の作戦を任された大村は、この戦いを一日で終わらせると宣言したと伝えられます。
彼は逃げ道をあえて一方向だけ開け、他を囲みました。そして遠距離から新式のアームストロング砲で撃ち込みます。彰義隊は数を頼みに白兵で挑もうとしましたが、届く前に崩れました。
予告どおり、戦いはその日のうちに終わります。
冷徹な計算で人の生き死にを配置する――この人物の評価が分かれる理由も、まさにここにあります。
暗殺
明治 2 年(1869 年)、新政府の兵部大輔となった大村は、軍制の改革に着手します。
その構想は、武士の特権を解体するものでした。身分にかかわらず徴兵する国民軍を作るという方針は、戦って勝った当の武士たちから職と誇りを奪うことを意味します。
同年 9 月、京都で大村は襲撃され、重傷を負いました。襲ったのは攘夷派の浪士とされます。軍制改革への反発が背景にあったとみられますが、動機を一つに確定できる史料はありません。
大阪へ移されて治療を受けましたが傷口から感染症を起こし、明治 2 年 11 月(西暦 1869 年 12 月)に死去しました。生年が確定しないため、満 44 か 45 です。
彼の構想は、のちに徴兵令として実現します。本人はその前に殺されました。
銅像
東京・九段の靖国神社の参道には、大村益次郎の銅像が立っています。
日本で最初期の西洋式銅像の一つで、上野の方角を向いているとされます。彰義隊を破った戦場です。
大村益次郎の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1824 または 1825 年 | 周防国の村医者の家に生まれる。名は村田蔵六 |
| 1840 年代 | 大坂の適塾で学び、塾頭となる |
| 1850 年代 | 宇和島藩に招かれ、蒸気船の製造に関わる |
| 1850 年代後半 | 江戸で私塾を開き、幕府の洋学機関でも教える |
| 1860 年 | 長州藩に召し抱えられる |
| 1866 年 | 第二次長州征討。石州口で幕府軍を撃退 |
| 1868 年 | 上野戦争を一日で終わらせる |
| 1869 年 | 兵部大輔として軍制改革に着手。京都で襲撃され、12 月に死去。満 44 か 45 |
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