幕末の偉人

徳川斉昭とは?水戸の烈公の家系図と墓、慶喜との関係を解説

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徳川斉昭とは?水戸の烈公の家系図と墓、慶喜との関係を解説
徳川斉昭 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

幕末に尊王攘夷という言葉が力を持ったのは、この人の藩からでした。徳川斉昭、水戸藩主。「烈公」と呼ばれます。

目次

徳川斉昭とは何をした人か

斉昭の役割は三つに整理できます。

第一に、水戸藩の改革者として。 藩政を立て直し、藩校弘道館を興して人材を育てました。

第二に、海防論者として。 外国船の接近に危機感を持ち、大砲を鋳造し、幕府に海防の強化を説き続けました。

第三に、尊王攘夷思想の後ろ盾として。 水戸には水戸学という学問の伝統があり、斉昭のもとでそれが政治的な力を持ちます。幕末の志士たちが掲げた尊王攘夷は、水戸から広まりました。

寛政 12 年(1800 年)生まれ。御三家の一つ、水戸徳川家の出です。

烈公と呼ばれた改革

藩主となった斉昭は、財政の立て直しに着手します。

土地の調査を行い、質素倹約を徹底し、大規模な軍事演習を行いました。寺院の鐘を供出させて大砲に鋳直すという施策も進めています。仏教勢力との衝突を招いた強硬なやり方でした。

弘道館は、武芸と学問の両方を教える大規模な藩校です。水戸学の拠点となり、ここから思想が全国へ広がっていきます。

その激しさゆえに敵も多く、天保 15 年(1844 年)には幕府から隠居と謹慎を命じられました。幕府にとっても扱いにくい人物だったのです。

黒船と、政治への復帰

嘉永 6 年(1853 年)の黒船来航によって、状況が変わります。

海防を説き続けてきた斉昭の主張が、現実味を帯びたためです。幕府は彼を海防参与として政治の場に呼び戻しました。

ただし斉昭の主張は徹底した攘夷であり、開国して条約を結ぶ路線とは相容れません。現実の外交と、彼の理念は噛み合いませんでした。

井伊直弼との対決

そして幕府を二分する将軍継嗣問題が起こります。

13 代将軍・家定に子がなく、後継をどうするかで幕府が割れました。斉昭が推したのは一橋慶喜――彼自身の実子です。年長で聡明とされ、この難局を乗り切れる人物だという主張でした。

対する大老・井伊直弼は、血筋の近い紀州の徳川家茂を選びます。さらに井伊は、勅許を得ないまま通商条約に調印しました。

斉昭らはこれに抗議しますが、井伊の処断は苛烈でした。安政の大獄です。斉昭は安政 5 年(1858 年)に登城停止と謹慎を受け、翌安政 6 年(1859 年)には国許での永蟄居を命じられて水戸に押し込められました。

そして水戸の浪士たちが、井伊を討ちます。 桜田門外の変です。斉昭自身が指示したわけではありませんが、その思想と処分が事件の背景にあったことは疑いありません。

斉昭が世を去るのは、この事件の数か月後、万延元年(1860 年)のことでした。満 60 歳です。

徳川斉昭の家系図

斉昭について検索されるときに多いのが家系です。理由は二つあります。

一つは、子の多さです。 斉昭には非常に多くの子がおり、その数の多さ自体がしばしば話題にされます。

もう一つは、七男が徳川慶喜だという点です。 慶喜は一橋家へ養子に出され、のちに最後の将軍となりました。大政奉還によって政権の返上を申し出た人物です。なお幕府そのものが廃されたのは、同じ年の 12 月に出された王政復古の大号令によります。

攘夷を唱え続けた父の子が、政権を朝廷へ返したことになります。斉昭の子はほかにも各地の大名家へ養子に入っており、幕末の諸藩に水戸の血が広がっていました。

徳川斉昭の墓

斉昭の墓は、茨城県常陸太田市の瑞龍山にあります。

ここは水戸徳川家の歴代当主が葬られた墓所です。特徴的なのは、儒教の様式に沿った墓が並んでいることで、一般的な大名家の菩提寺とは趣が異なります。

水戸には斉昭が造営した偕楽園があり、弘道館とともに今も残っています。学問の場と、庭園と、大砲。 この三つを同時に整えたところに、彼の考えた藩のかたちが見えます。

徳川斉昭の年表

出来事
1800 年水戸徳川家に生まれる
1829 年水戸藩主となる
1841 年藩校弘道館を開く。偕楽園も造営
1844 年幕府から隠居・謹慎を命じられる
1853 年黒船来航により海防参与として復帰
1858 年将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、安政の大獄で謹慎
1859 年水戸での永蟄居を命じられる
1860 年桜田門外の変の数か月後に死去。満 60 歳

思想の広がりは尊王攘夷、子・慶喜については徳川慶喜で扱っています。

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