幕末の文化

桜田門外の変とは?なぜ起きたのかをわかりやすく解説

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桜田門外の変とは?なぜ起きたのかをわかりやすく解説
「桜田門外之変図」(1860年) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

雪の降る朝、幕府の最高権力者が白昼に討たれました。桜田門外の変は、たった一度の襲撃で、260年続いた幕府の権威を決定的に傷つけた事件です。

目次

桜田門外の変とは

桜田門外の変とは、1860年3月24日(安政7年3月3日)、江戸城の桜田門外で、大老・井伊直弼が水戸脱藩浪士らに暗殺された事件です。

項目内容
日時1860年3月24日の朝
場所江戸城 桜田門外(現在の東京都千代田区)
襲撃した者水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名、計18名
討たれた人物大老 井伊直弼(彦根藩主・満44歳)
意味幕府の最高権力者が白昼に暗殺された前代未聞の事件

桜田門外の変はなぜ起きたのか

直接の原因は、井伊直弼が主導した安政の大獄にあります。

孝明天皇が幕府を通さず水戸藩へ勅書を下した「戊午の密勅」に井伊は激怒し、その返納を厳しく迫るとともに、関係者を次々と処断しました。水戸藩では安島帯刀が切腹、鵜飼吉左衛門・幸吉父子が死罪となっています。藩の重臣を次々と処断された水戸の人々にとって、井伊は不倶戴天の敵でした。

さらに背景として、次の恨みが積み重なっていました。

  • 無勅許での条約調印……朝廷の許しを得ずに日米修好通商条約を結んだこと
  • 将軍継嗣問題……水戸の徳川斉昭が推す一橋慶喜を退け、紀州の徳川慶福を後継に据えたこと
  • 徳川斉昭への永蟄居処分……水戸藩の前藩主が政治生命を絶たれたこと

彼らにとってこの襲撃は、私怨ではなく朝廷の意思を踏みにじった逆臣を討つ行為でした。

その日、何が起きたのか

3月3日は上巳の節句にあたり、諸大名が江戸城へ登城する日でした。行列の日時が事前に分かっていたわけです。

その朝、季節外れの雪が積もっていました。この雪が、襲撃の成否を分けたとされます。

彦根藩の供の者たちは、雪と寒さを防ぐために合羽をまとい、刀の柄には濡れを防ぐ袋をかけていました。いざというときに即座に抜刀できない状態です。行列が桜田門外にさしかかったところで、浪士たちが一斉に斬り込みました。

まず銃声が上がり、駕籠の中の井伊が撃たれたとされます。混乱のなか護衛は応戦しきれず、薩摩藩士の有村次左衛門が駕籠から井伊を引き出して討ち取りました。有村自身もこのとき深手を負い、まもなく自刃しています。

襲撃はごく短時間で終わりました。江戸城の門前、幕府の膝元で、大老が首を取られたのです。

幕府はどう対応したか

幕府は、井伊の死をただちに公表しませんでした。

大老が暗殺されたという事実そのものが、幕府の威信にとって致命的だったからです。しばらくのあいだ井伊は負傷して療養中という扱いとされ、公式には後日、病死として処理されました。彦根藩の改易を避けるための配慮でもあったとされます。

しかし、隠しきれるものではありませんでした。 事件は瞬く間に世に知れ渡り、幕府がもはや反対勢力を抑えられないことが天下に示されます。

桜田門外の変がもたらしたもの

幕府の権威が決定的に失われました。 力で反対派を押さえ込む路線はこの一件で破綻し、幕府は朝廷との融和をはかる公武合体へと方針を転換せざるをえなくなります。

テロという手段が政治を動かしうると示してしまいました。 この事件以降、幕末の政局には暗殺が常態として組み込まれていきます。坂本龍馬や中岡慎太郎の死も、その延長線上にあります。

水戸と彦根の遺恨は長く残りました。 両者の和解が図られるのは、明治も後半になってからのことです。

安政の大獄から桜田門外の変まで、わずか1年半。力による統制が統制の崩壊を招いたこの経緯は、幕末という時代の転換点として記憶されています。

よくある質問

桜田門外の変はいつ起きましたか。 1860年3月24日(安政7年3月3日)の朝です。

誰が井伊直弼を襲ったのですか。 水戸藩を脱藩した浪士17名と、薩摩藩士の有村次左衛門を加えた計18名です。

なぜ雪の日だったことが重要なのですか。 護衛の彦根藩士たちが合羽を着て刀に袋をかけていたため、とっさに応戦できませんでした。雪が襲撃の成功を助けたとされます。

桜田門は今も残っていますか。 現在の皇居(旧江戸城)の桜田門は残されており、国の重要文化財に指定されています。

討たれた人物は井伊直弼、事件の原因となった弾圧は安政の大獄の記事でどうぞ。

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