尊王攘夷(尊皇攘夷)とは?意味と倒幕へ変わった理由を解説

幕末の合言葉、尊王攘夷(そんのうじょうい)。外国を打ち払えと叫んだ人々が、勝った後に西洋化を進めた——この一見矛盾した流れを、順を追って解きます。
目次
尊王攘夷(尊皇攘夷)とはどういう意味か
尊王攘夷とは、「尊王」と「攘夷」という二つの主張が結びついた言葉です。
| 語 | 意味 |
|---|---|
| 尊王 | 天皇を国の中心として尊ぶこと |
| 攘夷 | 外国勢力を打ち払うこと |
もとは中国の古典に由来する言葉で、日本では水戸学——水戸藩で編まれた歴史書『大日本史』を軸とする学問——を通じて政治思想として整えられました。徳川斉昭が藩主を務めた水戸藩は、この思想の発信地です。
重要なのは、当初これは「幕府を倒せ」という思想ではなかったことです。天皇を戴きつつ幕府が政治を担う、という枠組みそのものは否定していません。それが十数年で倒幕論に化けます。
尊王攘夷はなぜ幕末に高まったのか
きっかけは、黒船来航(1853 年)です。
危機が現実になったこと自体もそうですが、より効いたのは幕府の対応でした。老中阿部正弘が諸大名や朝廷に意見を求めたことで、外交は幕府だけが決めるものではなくなったのです。
決定的だったのが、1858 年の日米修好通商条約です。大老井伊直弼は、孝明天皇の勅許を得ないまま調印しました。
「天皇の意に反して外国と結んだ」——尊王と攘夷が、ここで一本につながります。 幕府批判は一気に正当性を帯び、井伊は反対派を安政の大獄で弾圧し、その報復として桜田門外の変(1860 年)で暗殺されました。
大老が白昼に暗殺されて、幕府は犯人を処断しきれなかった。 この事実が「幕府は絶対ではない」と天下に示すことになります。
攘夷はどう実行され、どう失敗したのか
尊王攘夷は、言葉だけでは終わりませんでした。
1863 年 5 月 10 日、幕府は朝廷に押し切られる形で攘夷の実行期日を定めます。この日、長州藩は下関海峡を通る外国船への砲撃を開始しました。
結果は、次のとおりです。
- 1863 年 8 月、薩英戦争。 生麦事件の報復として来襲したイギリス艦隊と薩摩藩が交戦。鹿児島の市街が焼かれました
- 1864 年 8 月、四国艦隊下関砲撃事件。 イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が下関を攻撃し、長州の砲台は制圧されました
攘夷は、実行してみたら不可能だと分かったのです。
そして皮肉なことに、この二つの敗戦を経験した薩摩と長州が、以後の日本を動かします。 負けた当事者が、最も早く「西洋の力を認めて学ぶ」側へ回ったからです。
尊王攘夷はなぜ倒幕に変わったのか
理屈はこうです。
攘夷を本気でやるなら、まず国を強くしなければならない。 国を強くするには、西洋の技術と制度を入れるしかない。ところが今の幕府にはそれができない。 ならば政権を天皇のもとに一元化し、新しい体制で富国強兵を進めるべきだ——。
こうして攘夷の旗は、そのままの言葉で中身だけ倒幕へ入れ替わりました。 高杉晋作の奇兵隊も、坂本龍馬が仲介した薩長同盟(1866 年)も、この転換の上に成り立っています。
一方で、転換に乗り遅れた人々もいました。攘夷を文字どおり信じ続けた志士の多くは、池田屋事件や禁門の変(1864 年)で命を落としています。久坂玄瑞も吉田稔麿も、転換を見ずに死にました。
尊王攘夷は明治維新に何を残したのか
明治維新の後、新政府は攘夷とは正反対の道を進みます。岩倉使節団を欧米へ送り、鉄道を敷き、洋装を採り入れ、外国人教師を大量に雇いました。
攘夷を叫んで幕府を倒した人々が、西洋化の先頭に立ったわけです。
ただし、「尊王」のほうは残りました。 天皇を国家の中心に据えるという枠組みは明治憲法体制に受け継がれ、近代日本の骨格になります。
尊王攘夷という言葉は、二つの成分でできていた。攘夷は捨てられ、尊王は制度になった。 これが最も正確な要約です。
尊王攘夷の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1853 年 | 黒船来航。対外危機が現実になる |
| 1858 年 | 日米修好通商条約を勅許なしで調印。安政の大獄が始まる |
| 1860 年 | 桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される |
| 1862 年 | 生麦事件。攘夷の実行が外交問題化する |
| 1863 年 5 月 | 長州藩が下関で外国船を砲撃(攘夷の実行) |
| 1863 年 8 月 | 薩英戦争。八月十八日の政変で尊攘派が京都を追われる |
| 1864 年 7 月 | 池田屋事件 |
| 1864 年 8 月 | 禁門の変。四国艦隊下関砲撃事件で長州の砲台が制圧される |
| 1866 年 | 薩長同盟。攘夷から倒幕へ軸が移る |
| 1867 年 | 大政奉還・王政復古の大号令 |
| 1868 年〜 | 明治維新。新政府は開国と西洋化を進める |
よくある質問
尊王攘夷の読み方は何ですか。
「そんのうじょうい」です。「尊皇攘夷」と書かれることもあります。
尊王攘夷とはどういう意味ですか。
天皇を尊ぶ(尊王)ことと、外国勢力を打ち払う(攘夷)ことを合わせた主張です。
尊王攘夷は誰が唱えたのですか。
水戸学を通じて広まった思想で、徳川斉昭の水戸藩が発信地の一つです。吉田松陰の松下村塾から出た長州の志士たちが、実行の中心になりました。
攘夷は実際に行われたのですか。
はい。1863 年に長州藩が下関で外国船を砲撃しました。しかし薩英戦争と四国艦隊下関砲撃事件で敗れ、実力での攘夷は不可能だと判明します。
なぜ攘夷を叫んだ人々が開国したのですか。
攘夷を実行するには国力が要り、そのためには西洋の技術と制度が必要だと分かったからです。目的(外国に負けない国)は変わらず、手段が逆転しました。
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