幕末の偉人

徳川家慶とは?ペリー来航の十九日後に死んだ十二代将軍

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徳川家慶とは?ペリー来航の十九日後に死んだ十二代将軍
徳川家慶 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

黒船が来た十九日後に死んだ将軍がいます。十二代・徳川家慶。幕末という時代の入口に立って、そのまま倒れた人です。

目次

徳川家慶とは何をした人か

徳川家慶は、江戸幕府の十二代将軍です。在職は天保 8 年(1837 年)から嘉永 6 年(1853 年)まで。

その治世でやったことは、大きく三つです。

第一に、天保の改革を始めさせたこと。 老中首座の水野忠邦に権限を与え、幕政の立て直しを試みました。

第二に、その改革を打ち切ったこと。 上知令への反発が強まると、水野を切りました。

第三に、阿部正弘を登用したこと。 二十代の若い譜代大名を老中に引き上げ、結果としてペリー来航に対応する体制を残しました。

寛政 5 年 5 月 14 日(1793 年 6 月 22 日)に生まれ、嘉永 6 年 6 月 22 日(1853 年 7 月 27 日)に没しました。満 60 歳です。

徳川家慶が四十代半ばまで将軍になれなかった理由

家慶は十一代徳川家斉の次男です。世継ぎと定められてからが長く、将軍職を継いだのは天保 8 年(1837 年)、四十代半ばになってからでした。

しかも、継いでも実権はありません。父・家斉が大御所として政治を握り続けたからです。家斉が没するのは天保 12 年(1841 年)。家慶が自分の意思で政治を動かせるようになったのは、将軍になってから四年後でした。

将軍になるまでに四十年余り、実権を握るまでにさらに四年。 家慶の政治家としての時間は、そのぶん短くなっています。

徳川家慶の天保の改革と、その打ち切り

家斉の死の直後、家慶は水野忠邦を老中首座として天保の改革を始めます。

内容は、倹約令、風俗の取り締まり、江戸に流入した人々を農村へ戻す人返し令、そして株仲間の解散です。物価を下げるために流通の独占を壊す、という発想でした。

しかし天保 14 年(1843 年)、上知令——江戸・大坂周辺の大名領や旗本領を幕府の直轄地に組み替えるという案が、大名と旗本の猛反発を招きます。家慶は水野を罷免しました。改革はここで終わります。

改革を始めたのも家慶、終わらせたのも家慶です。 幕府がまだ大名を押し切れる力を持っていたかどうかが、この一件で見えてしまいました。

徳川家慶は「そうせい様」と呼ばれたのか

家慶については、家臣の提案に「そうせい」とだけ答えたので「そうせい様」と呼ばれたという話が広く伝わっています。

ただし、これは後世の逸話として語られてきたもので、同時代の史料で裏づけられているわけではありません。

実際の家慶を人事から見ると、少し違う像が出てきます。父の死を待って改革を始め、行き詰まると即座に切り、次に若い阿部正弘を上げた。 これは「何も決めない人」の動き方ではありません。決めた結果が続かなかった、と言うほうが正確でしょう。

徳川家慶の死因とペリー来航の十九日後の最期

嘉永 6 年 6 月 3 日(1853 年 7 月 8 日)、ペリーの艦隊が浦賀沖に現れます。黒船来航です。

このとき家慶はすでに病床にありました。そして嘉永 6 年 6 月 22 日(1853 年 7 月 27 日)、来航から十九日後に死去します。

死因は、暑気あたり(熱中症)による心不全と伝えられます。旧暦六月の江戸は真夏です。

対応にあたったのは老中首座の阿部正弘でした。阿部が大統領の国書を受け取ったのは 7 月 14 日で、その十三日後に将軍が死んでいます。 幕府は家慶の死をしばらく公表せず、そのまま翌年の日米和親条約へ進みました。幕府が「開国か攘夷か」で揺れる十五年は、家慶の死の直後から始まりました。

徳川家慶の子と跡を継いだ将軍

家慶には多くの子が生まれましたが、成人したのは十三代となる徳川家定ただ一人でした。

その家定も病弱で、在職わずか五年、安政 5 年(1858 年)に没します。以後、徳川家茂徳川慶喜と続いて幕府は終わりました。家慶の死から幕府の終わりまで、十四年しかありません。

墓所は東京都港区の増上寺で、院号は慎徳院。六代・十四代とともに並ぶ墳墓門は重要文化財に指定されています。

徳川家慶の年表

出来事
1793 年 6 月 22 日十一代徳川家斉の次男として生まれる(寛政 5 年 5 月 14 日)
1837 年十二代将軍となる(天保 8 年)。実権は大御所・家斉が握る
1841 年家斉が没し、水野忠邦に天保の改革を始めさせる
1843 年上知令への反発で水野を罷免。改革は終わる
1843 年阿部正弘を老中に登用
1853 年 7 月 8 日ペリーが浦賀に来航(嘉永 6 年 6 月 3 日)
1853 年 7 月 27 日在職のまま没(嘉永 6 年 6 月 22 日)。満 60 歳

父は徳川家斉、子は徳川家定、治世を支えたのは水野忠邦阿部正弘です。

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