幕末の偉人

水野忠邦とは?天保の改革を断行して失脚した老中の生涯

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水野忠邦とは?天保の改革を断行して失脚した老中の生涯
椿椿山筆 水野忠邦像(天保年間) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

享保・寛政に続く「幕府三大改革」の最後が、天保の改革です。指揮したのは老中・水野忠邦。改革は二年余りで潰れ、彼は失脚しました。

目次

水野忠邦とは何をした人か

忠邦は、江戸時代後期の大名であり、幕府の老中です。

歴史に名が残る理由はひとつ、天保の改革を主導したことです。ぜいたくを禁じ、物価を下げ、農村から人を戻し、幕府の土地を増やす——傾いた幕府財政を、法令で一気に立て直そうとしました。

そして失敗します。改革が生んだ反発によって、彼自身が罷免されました。

寛政 6 年(1794 年)に生まれ、嘉永 4 年(1851 年)に没しています。

水野忠邦が出世のために国を替えた話

忠邦は、はじめ肥前唐津藩(現在の佐賀県)の藩主でした。

唐津は豊かな藩です。しかし長崎の警備という重い役目を負っていたため、藩主は幕府の中枢に入りにくいという事情がありました。

忠邦は、石高の少ない遠江浜松藩への転封を望みました。移った当初の浜松藩は六万石で、のちに老中首座となってから一万石を加増され七万石になります。収入が減っても幕政に参加できる——出世のために領地を替えたわけです。家臣がこれを諫めて死んだという話も伝わります。

その狙いどおり、文政 11 年(1828 年)に西丸老中となり、やがて幕政の中枢に進みました。

水野忠邦の天保の改革とは

天保 12 年(1841 年)、大御所として長く実権を握っていた徳川家斉が死にます。

家斉の時代は、幕府の財政が最も緩んだ時代でした。12 代将軍・家慶のもと、忠邦は待っていたように改革へ着手します。天保の改革です。

改革の柱は、おおむね四つでした。

倹約と風俗の取り締まり。 華美な衣服や高価な菓子を禁じ、寄席を大幅に減らし、歌舞伎の芝居小屋を江戸の外れへ移させました。人気の小説家も処罰されています。娯楽そのものを縮めにかかったのです。

株仲間の解散。 商人の同業組合が価格をつり上げていると見て、これを解散させました。ところが流通の仕組みごと壊れ、物価はかえって混乱します。株仲間はのちに再興されました。

人返し令。 江戸に流れ込んだ農民を村へ帰し、年貢の取れる田を回復させようとしました。

上知令。 そして最後に打ったのが、これです。

水野忠邦の上知令と失脚

天保 14 年(1843 年)、忠邦は上知令を出します。

江戸と大坂の周辺を、幕府の直轄地にするという命令でした。幕府の収入を増やし、江戸・大坂の防衛を固める——理屈は通っています。

しかし、その土地には大名や旗本の領地が含まれていました。彼らは、豊かな土地を取り上げられて代わりに遠国をあてがわれることになります。猛烈な反発が起きました。

しかも味方であるはずの幕閣からも離反者が出ます。忠邦の腹心として改革の実務を担っていた鳥居耀蔵が、反対派に情報を流したとされます。

同じ年の閏 9 月(西暦では 1843 年 11 月)、忠邦は老中を罷免されました。上知令は撤回され、改革はここで終わります。

翌年に一度は老中へ復帰しますが長続きせず、弘化 2 年(1845 年)に退きました。その後、蟄居と減封を命じられています。

天保の改革はなぜ失敗したのか

三大改革のなかで、天保の改革は最も短命に終わりました。

挫折の要因は複数あります。商業統制への町人・商人の反発、上知令をめぐる大名と旗本の抵抗、そして幕閣内部の対立が重なりました。

そのうえで、政策全体に共通する弱点も指摘されます。忠邦の政策は、幕府の都合を起点に組まれていました。倹約令は町人の暮らしを締め上げ、株仲間の解散は商人の秩序を壊し、上知令は大名と旗本を敵に回しています。

そして十年後、ペリーが浦賀に来ます。幕府は財政も権威も立て直せないまま開国を迎えることになり、天保の改革の失敗は、その一因でした。

水野忠邦の墓

忠邦は嘉永 4 年(1851 年)に没しました。満 56 歳です。

墓は、現在の茨城県結城市大字山川新宿にあります。山川は水野家初代・忠元にゆかりのある地で、歴代の墓所が置かれました。忠邦の墓は茨城県指定史跡です。

江戸を作り替えようとした人物の墓が、江戸から離れた地に静かに残っていることになります。

水野忠邦の年表

出来事
1794 年生まれる
1810 年代肥前唐津藩主となる
1817 年ごろ幕政参加を望み、遠江浜松藩(六万石)へ転封
1828 年西丸老中となる
1841 年徳川家斉の死を機に天保の改革に着手
1841〜42 年倹約令・風俗取締り・株仲間解散・人返し令
1843 年上知令を発布
1843 年 11 月反発を受けて老中を罷免。上知令は撤回
1845 年老中を退き、のちに蟄居・減封
1851 年没。満 56 歳

同時代の将軍は徳川家斉、忠邦の失脚後に幕政を担ったのは阿部正弘です。

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