阿部正弘とは?黒船に諸大名の意見を求めた老中首座の生涯

黒船が来たとき、幕府の最高責任者だったのがこの人です。阿部正弘、老中首座。そして彼は、前例を破って諸大名に意見を聞きました。
目次
阿部正弘とは何をした人か
正弘は、備後福山藩(現在の広島県福山市)の藩主であり、江戸幕府の老中首座です。老中首座とは、幕府の行政のトップにあたります。
その仕事は三つに集約されます。
第一に、黒船来航に対処したこと。 ペリー来航を受け、日米和親条約の締結を主導しました。
第二に、意思決定のやり方を変えたこと。 アメリカ大統領の国書を諸大名や幕臣に示し、広く意見を求めました。幕府の専断を建前とする体制で、これは異例です。
第三に、人材を身分にとらわれず登用したこと。 勝海舟ら、後の幕末を動かす人物がこの時期に引き上げられています。
文政 2 年(1819 年)に生まれ、安政 4 年(1857 年)に没しました。満 37 歳という短さです。
阿部正弘はなぜ二十代で老中首座になれたのか
正弘は、天保 14 年(1843 年)に老中となり、弘化 2 年(1845 年)に老中首座へ進みました。
このとき、満 25 歳です。
譜代大名の当主であるとはいえ、幕府の最高職としては異例の若さでした。以後、彼は死ぬまでの十二年余りを幕政の中心で過ごします。幕末の入り口は、この若い老中の時代でした。
阿部正弘が黒船来航で諸大名に意見を求めた理由
嘉永 6 年 6 月(西暦では 1853 年 7 月)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に現れます。黒船来航です。
正弘がとった行動は、それまでの幕府のやり方から外れていました。
彼はアメリカ大統領の国書を翻訳させ、諸大名・幕臣・学者に示して、広く意見を求めたのです。
これは前例のないことでした。幕府の建前では、外交も国政も幕府が決めるものです。大名に意見を聞くという行為は、「幕府だけでは決められない」と認めたに等しいものでした。
結果として、この諮問は幕末政治の枠組みを変えます。諸大名が国政に発言する道が開き、朝廷の意向も無視できなくなりました。幕府の独占が崩れ始めた起点が、ここにあります。
正弘の意図は、幅広い支持を得て難局を乗り切ることにありました。しかし開いた扉は、二度と閉じませんでした。
阿部正弘と日米和親条約
嘉永 7 年(1854 年)、ペリーは艦隊を増やして再来航します。
横浜村での交渉の末、正弘のもとで日米和親条約が結ばれました。下田と箱館の開港、漂流民の救助、アメリカ船への薪水・食料の供給などを定めた条約です。
日本の「鎖国」は、ここで終わりました。
なお、通商——貿易の取り決めは、この条約には含まれていません。それは数年後の日米修好通商条約を待つことになり、その調印をめぐって安政の大獄へつながっていきます。
阿部正弘が登用した人物
正弘の評価が高い理由の多くは、人材登用にあります。
彼が引き上げた人物には、勝海舟がいます。小普請組という低い身分にいた勝は、海防に関する意見書を出し、それが正弘の目に留まりました。身分より中身で人を選んだわけです。
制度の面でも手を打ちました。長崎海軍伝習所を開いてオランダ人に航海術を教えさせ、講武所で武術と洋式軍事を訓練させ、蕃書調所で洋書の翻訳と洋学の研究を進めさせています。長崎海軍伝習所からは、勝海舟や榎本武揚が出ました。
自分の藩でも同じことをしています。福山の藩校を誠之館と改め、藩士の子弟以外にも聴講を認めました。
「開国か攘夷か」の議論よりも先に、正弘は人と組織を作っていたことになります。
阿部正弘の死因と最期
安政 4 年(1857 年)6 月(西暦では 1857 年 8 月)、正弘は病で没します。満 37 歳でした。
その死の翌年、井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まります。正弘の「広く意見を聞く」路線と、井伊の「反対者を叩き潰す」路線は、正反対でした。
もし正弘があと十年生きていたら——という問いは、幕末を語るときにしばしば持ち出されます。答えは出ませんが、彼が引き上げた人材が、その後の幕府を支えたことだけは確かです。
阿部正弘のゆかりの地(福山)
墓所は、阿部家の菩提寺に営まれました。
そして福山市では、正弘は郷土の偉人として顕彰されています。市内に銅像が立ち、藩校の名を継いだ「誠之」の名の学校が今も残っています。藩士の子弟以外にも門戸を開いた学校の名前が、百七十年を越えて使われ続けているわけです。
阿部正弘の年表
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