幕末の偉人

阿部正弘とは?黒船に諸大名の意見を求めた老中首座の生涯

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阿部正弘とは?黒船に諸大名の意見を求めた老中首座の生涯
五姓田芳柳(二代)筆 阿部正弘像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

黒船が来たとき、幕府の最高責任者だったのがこの人です。阿部正弘、老中首座。そして彼は、前例を破って諸大名に意見を聞きました。

目次

阿部正弘とは何をした人か

正弘は、備後福山藩(現在の広島県福山市)の藩主であり、江戸幕府の老中首座です。老中首座とは、幕府の行政のトップにあたります。

その仕事は三つに集約されます。

第一に、黒船来航に対処したこと。 ペリー来航を受け、日米和親条約の締結を主導しました。

第二に、意思決定のやり方を変えたこと。 アメリカ大統領の国書を諸大名や幕臣に示し、広く意見を求めました。幕府の専断を建前とする体制で、これは異例です。

第三に、人材を身分にとらわれず登用したこと。 勝海舟ら、後の幕末を動かす人物がこの時期に引き上げられています。

文政 2 年(1819 年)に生まれ、安政 4 年(1857 年)に没しました。満 37 歳という短さです。

阿部正弘はなぜ二十代で老中首座になれたのか

正弘は、天保 14 年(1843 年)に老中となり、弘化 2 年(1845 年)に老中首座へ進みました。

このとき、満 25 歳です。

譜代大名の当主であるとはいえ、幕府の最高職としては異例の若さでした。以後、彼は死ぬまでの十二年余りを幕政の中心で過ごします。幕末の入り口は、この若い老中の時代でした。

阿部正弘が黒船来航で諸大名に意見を求めた理由

嘉永 6 年 6 月(西暦では 1853 年 7 月)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に現れます。黒船来航です。

正弘がとった行動は、それまでの幕府のやり方から外れていました。

彼はアメリカ大統領の国書を翻訳させ、諸大名・幕臣・学者に示して、広く意見を求めたのです。

これは前例のないことでした。幕府の建前では、外交も国政も幕府が決めるものです。大名に意見を聞くという行為は、「幕府だけでは決められない」と認めたに等しいものでした。

結果として、この諮問は幕末政治の枠組みを変えます。諸大名が国政に発言する道が開き、朝廷の意向も無視できなくなりました。幕府の独占が崩れ始めた起点が、ここにあります。

正弘の意図は、幅広い支持を得て難局を乗り切ることにありました。しかし開いた扉は、二度と閉じませんでした。

阿部正弘と日米和親条約

嘉永 7 年(1854 年)、ペリーは艦隊を増やして再来航します。

横浜村での交渉の末、正弘のもとで日米和親条約が結ばれました。下田と箱館の開港、漂流民の救助、アメリカ船への薪水・食料の供給などを定めた条約です。

日本の「鎖国」は、ここで終わりました。

なお、通商——貿易の取り決めは、この条約には含まれていません。それは数年後の日米修好通商条約を待つことになり、その調印をめぐって安政の大獄へつながっていきます。

阿部正弘が登用した人物

正弘の評価が高い理由の多くは、人材登用にあります。

彼が引き上げた人物には、勝海舟がいます。小普請組という低い身分にいた勝は、海防に関する意見書を出し、それが正弘の目に留まりました。身分より中身で人を選んだわけです。

制度の面でも手を打ちました。長崎海軍伝習所を開いてオランダ人に航海術を教えさせ、講武所で武術と洋式軍事を訓練させ、蕃書調所で洋書の翻訳と洋学の研究を進めさせています。長崎海軍伝習所からは、勝海舟や榎本武揚が出ました。

自分の藩でも同じことをしています。福山の藩校を誠之館と改め、藩士の子弟以外にも聴講を認めました。

「開国か攘夷か」の議論よりも先に、正弘は人と組織を作っていたことになります。

阿部正弘の死因と最期

安政 4 年(1857 年)6 月(西暦では 1857 年 8 月)、正弘は病で没します。満 37 歳でした。

その死の翌年、井伊直弼が大老となり、安政の大獄が始まります。正弘の「広く意見を聞く」路線と、井伊の「反対者を叩き潰す」路線は、正反対でした。

もし正弘があと十年生きていたら——という問いは、幕末を語るときにしばしば持ち出されます。答えは出ませんが、彼が引き上げた人材が、その後の幕府を支えたことだけは確かです。

阿部正弘のゆかりの地(福山)

墓所は、阿部家の菩提寺に営まれました。

そして福山市では、正弘は郷土の偉人として顕彰されています。市内に銅像が立ち、藩校の名を継いだ「誠之」の名の学校が今も残っています。藩士の子弟以外にも門戸を開いた学校の名前が、百七十年を越えて使われ続けているわけです。

阿部正弘の年表

出来事
1819 年備後福山藩主家に生まれる
1843 年老中となる
1845 年老中首座に就任。満 25 歳
1853 年ペリー来航。国書を諸大名・幕臣に示して意見を求める
1854 年日米和親条約を締結
1850 年代長崎海軍伝習所・講武所・蕃書調所を設置。藩校を誠之館に改組
1857 年病没。満 37 歳

来航そのものは黒船来航、正弘が登用した人物は勝海舟、対照的な後任は井伊直弼で扱っています。

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