幕末の偉人

徳川家斉とは?子の数と子孫、50年続いた大御所時代を解説

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徳川家斉とは?子の数と子孫、50年続いた大御所時代を解説
徳川家斉 肖像 / 出典: Wikimedia Commons Public domain

将軍在職 50 年。徳川十五代のなかで、これほど長く座り続けた人物はほかにいません。11 代将軍・徳川家斉です。

目次

徳川家斉とは何をした人か

家斉の治世は、幕末の 30 年ほど前に当たります。幕府がまだ盤石に見えていた最後の時期です。

その中身は、大きく前半と後半に分かれます。

前半は、改革の時代。 老中・松平定信による寛政の改革が行われ、質素倹約と綱紀粛正が進められました。

後半は、緩みの時代。 家斉は定信を退けたのち、みずから政治の実権を握り続けます。財政は放漫に流れ、貨幣の改鋳が繰り返されました。

そしてこの後半に、江戸の町人文化が爛熟します葛飾北斎歌川広重が活躍したのも、滝沢馬琴の読本が流行したのも、この時期です。化政文化と呼ばれます。

15 歳で将軍になる

安永 2 年(1773 年)、一橋家に生まれます。将軍家の分家です。

10 代将軍・家治の子が早世したため、家斉が養子となって後を継ぎました。天明 7 年(1787 年)、数えで 15 歳での就任です。

当時の幕府は、天明の飢饉と打ちこわしで揺れていました。若い将軍を支える形で登用されたのが松平定信で、彼の主導した寛政の改革が最初の 6 年ほどを占めます。

しかし定信の厳しい引き締めは、将軍自身とも衝突しました。定信は退けられ、以後は家斉の親政が長く続きます。

大御所時代

天保 8 年(1837 年)、家斉は将軍の座を子の徳川家慶に譲りました。

しかし実権は手放しませんでした。大御所として、なお政治を動かし続けます。この期間を含めた家斉の時代を大御所時代と呼びます。

在職 50 年に大御所期を加えれば、半世紀を超えて幕政の頂点にあったことになります。

その代償も残りました。放漫な財政運営と貨幣改鋳は物価を押し上げ、家斉の死後、水野忠邦による天保の改革が引き締めに向かうことになります。

徳川家斉の子は何人いたのか

家斉について最も多く検索されるのが、子の数です。

家斉には多数の側室があり、生まれた子は男女合わせて 50 人を超えたとされます。正確な人数は資料によって差がありますが、いずれにせよ徳川将軍のなかで突出した数です。

ただし、幼くして亡くなった子も非常に多いという点は押さえておく必要があります。当時の乳幼児死亡率は高く、成人した子はこの数字よりずっと少なくなります。

子孫はどこへ行ったのか

多数の子をどうするか。これは幕府にとって現実的な問題でした。

答えは、各地の大名家へ養子・縁組に出すことです。家斉の子は、御三家・御三卿をはじめ、諸藩の大名家へ広く入りました。

結果として、幕末の大名家の多くが家斉の血を引くという状況が生まれます。これは幕府にとって諸藩を身内で固める効果を持ちましたが、同時に受け入れる藩には持参金や体面の負担がかかりました。

家斉の子孫という切り口で幕末の大名家をたどると、思いがけない家がつながっていることが分かります。彼の血筋は、戊辰戦争で敵味方に分かれた両陣営に及んでいました。

最期

天保 12 年(1841 年)、家斉は死去します。満 67 歳でした。

大御所として君臨した人物が退場したことで、幕府はようやく本格的な改革に着手します。しかしその天保の改革も行き詰まり、その 12 年後に黒船が来ました。

徳川家斉の年表

出来事
1773 年一橋家に生まれる
1787 年11 代将軍に就任。数え 15 歳
1787〜93 年松平定信による寛政の改革
1804〜1830 年頃化政文化が花開く
1837 年将軍職を家慶に譲り、大御所となる
1841 年死去。満 67 歳

江戸時代全体の流れは江戸時代はいつからいつまで、この時代の暮らしは江戸時代の食事で扱っています。

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