河井継之助とは?長岡藩を率いてガトリング砲で戦った男を解説

小さな藩を、最新兵器で武装させ、大国相手に戦った男がいます。河井継之助。越後長岡藩の家老です。
目次
河井継之助とは何をした人か
継之助の仕事は、七万四千石の小藩・長岡を、独立した強い藩に作り変えようとしたことに尽きます。
藩政を改革して財政を立て直し、利益を最新式の兵器に注ぎ込みました。当時としては珍しいガトリング砲を購入したことで知られます。連発する機関砲で、日本に数門しかなかったとされます。
そして戊辰戦争では、新政府にも旧幕府にもつかず、武装中立を目指しました。それが叶わないと見るや、新政府軍を相手に戦います。
大勢に流されず、自らの藩の道を通そうとした――それが継之助の生涯です。
財政家としての手腕
文政 10 年(1827 年)、長岡藩士の家に生まれます。
若い頃の継之助は、江戸や各地で学びました。とりわけ影響を受けたのが、備中松山藩の山田方谷という財政家です。方谷は破綻していた藩の財政を立て直した実績を持つ人物で、継之助はその手法を学びました。
長岡へ戻った継之助は、藩政の改革に着手します。無駄を削り、産業を興し、財政を立て直しました。そしてその余力を、軍備の近代化に振り向けます。
藩を富ませ、その富で藩を武装する。 彼の構想は一貫していました。
武装中立という賭け
慶応 4 年(1868 年)、戊辰戦争が北へ及びます。
多くの藩が、新政府につくか旧幕府につくかの選択を迫られました。継之助が目指したのは、そのどちらでもない武装中立です。
長岡は独立を保ち、どちらにも与しない。 そのために強力な軍備を持ち、両者の間に立って戦争を調停する――これが彼の描いた道でした。
小藩がこれを唱えるのは、無謀とも理想主義ともいえます。しかし継之助は本気でした。
小千谷談判
慶応 4 年 5 月(西暦では 6 月)、継之助は新政府軍の陣を訪ね、直接交渉に臨みます。小千谷談判です。
彼は長岡の中立を認めるよう求めました。しかし新政府軍の若い監軍は、これを一蹴します。話し合いは、ごく短時間で決裂しました。
継之助の理想は、相手にされなかったのです。武装中立の望みは絶たれ、長岡は戦うほかなくなりました。
この談判の失敗を、後世さまざまに評する声があります。相手を見誤ったのか、そもそも通る話ではなかったのか。 議論は今も続いています。
北越戦争
こうして始まったのが、北越戦争です。
継之助率いる長岡藩兵は、近代兵器と巧みな用兵で新政府軍を苦しめました。一度は落とされた長岡城を、奇襲によって奪い返すという離れ業も演じています。小藩の軍が、はるかに大きな新政府軍を相手に善戦したのです。
継之助自らガトリング砲を操作したとも伝えられます。家老が最前線で機関砲を撃つ――この姿が、彼の伝説を作りました。
しかし、兵力と物量の差は覆せません。長岡城は再び落ち、藩兵は敗走します。
峠を越えて
戦いのなかで、継之助は足に銃弾を受け、重傷を負いました。
敗れた長岡藩兵は、会津を目指して山を越えます。継之助も、傷ついた体で担架に乗せられ、険しい八十里越の峠を運ばれました。
「八十里 こしぬけ武士の 越す峠」――このとき詠んだとされる句です。「八十里越」という峠の名に、腰の抜けた(腰を痛めた)自分を重ねた、自嘲を含んだ一句です。敗軍の将が、痛みと無念のなかで言葉を残しています。
そして八十里越を越えて会津領に入ったところで、傷が悪化して継之助は死去します。慶応 4 年 8 月 16 日(西暦では 1868 年 10 月 1 日)、会津領の塩沢村でのこと。満 41 歳でした。
藩を強くしようとして、藩を戦争に導き、自らも倒れた。 継之助の評価が今なお分かれるのは、この結末の重さゆえです。
河井継之助の評価
継之助は、故郷の長岡では複雑な受け取られ方をしてきました。
優れた指導者として顕彰する声がある一方で、藩を無用の戦争に巻き込み、城下を焼いた張本人だとする批判も、長く根強くありました。長岡の町は北越戦争で大きな被害を受けたためです。
司馬遼太郎の小説『峠』によって、継之助の名は全国に知られるようになりました。理想に殉じた男という像は、この作品に負うところが大きいものです。
新潟県長岡市には河井継之助記念館があり、彼の生涯と北越戦争を伝えています。
河井継之助の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1827 年 | 長岡藩士の家に生まれる |
| 1850 年代 | 各地で学び、山田方谷らに影響を受ける |
| 1860 年代 | 長岡藩の藩政改革を主導。軍備を近代化 |
| 1868 年 6 月 | 小千谷談判で武装中立を求めるが決裂(慶応 4 年 5 月) |
| 1868 年 | 北越戦争。長岡城を奪還するも再び落城 |
| 1868 年 10 月 | 会津領の塩沢村で死去。満 41 歳(慶応 4 年 8 月) |
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