幕末の偉人

橋本左内とは?安政の大獄に散った福井の俊英の生涯と名言

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橋本左内とは?安政の大獄に散った福井の俊英の生涯と名言
橋本左内 肖像画(島田墨仙 筆) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

数えで 15 歳のとき、自分を鍛えるための書を書いた少年がいます。橋本左内。その 11 年後、安政の大獄で処刑されました。満 25 歳です。

目次

橋本左内とは何をした人か

左内は、福井藩の藩士であり、医師であり、政治に関わった人物です。短い生涯に、いくつもの顔があります。

第一に、学ぶ人として。 大坂の適塾緒方洪庵に西洋医学を学びました。

第二に、藩の改革者として。 福井藩主・松平春嶽に見出され、藩政の中枢で働きました。

第三に、政治の駆け引きに関わった人として。 将軍継嗣問題で春嶽の意を受けて奔走し、それが彼の死につながります。

天保 5 年(1834 年)、福井藩の藩医の子として生まれました。

15 歳の『啓発録』

左内の名を語るとき、必ず挙げられるのが『啓発録』です。

これは彼が数え 15 歳(満 14 歳)のときに書いた、自己を戒めるための文章です。子どもの心を捨てること、志を立てること、学問に励むこと――五つの項目を立て、自分がどう生きるべきかを記しています。

十代なかばの少年が、自分に課題を課すために書いたという一点が、この書を特別なものにしています。今日でも人の生き方を説く文章として読まれ、福井では郷土の偉人として教えられています。

去稚心(稚心を去る)」――子どもっぽさを捨てよ、という最初の一項が、とりわけよく知られています。

医学から政治へ

左内は大坂へ出て、緒方洪庵の適塾で学びました。福沢諭吉大村益次郎と同じ塾です。

医師として身を立てるはずでした。しかし藩主・松平春嶽が、その才能を医学だけにとどめませんでした。左内は藩の政務に登用され、教育や藩政の改革に関わっていきます。

やがて彼は、江戸で藩の外交を担うようになりました。諸藩や幕府の要人と接触し、情報を集め、交渉する役です。20 代前半の若さで、藩の政治の最前線に立っていました。

将軍継嗣問題

左内の運命を決めたのが、将軍継嗣問題です。

13 代将軍・家定に子がなく、後継をどうするかで幕府が割れました。左内が仕える松平春嶽は、聡明で年長の一橋慶喜――のちの徳川慶喜を推す一派でした。

左内は春嶽の意を受け、慶喜を将軍にするために各方面を動かしました。有力者に働きかけ、朝廷にも運動します。若い彼が、国政の中枢の駆け引きに深く関わったのです。

しかし、この争いに勝ったのは反対派でした。大老・井伊直弼が紀州の徳川家茂を選び、慶喜擁立派は敗れます。

安政の大獄

井伊直弼は、自らに反対した者たちを厳しく処断しました。**安政の大獄**です。

左内も捕らえられました。慶喜擁立のために動いたことが、罪に問われたのです。

当初、彼の関与は死罪に当たるほど重いものではないとみられていました。しかし井伊の意向で刑が重くされ、死罪と決まったとされます。

安政 6 年 10 月(西暦では 1859 年 11 月)、左内は江戸で処刑されました。満 25 歳です。同じ大獄では吉田松陰も処刑されており、二人はしばしば並べて語られます。

橋本左内の言葉

処刑を前にした左内は、獄中で漢詩を残しました。

その内容は、志半ばで死ぬ無念と、それでも取り乱さない覚悟を詠んだものです。25 歳の若者が、死を目前にして自らの生涯を振り返っています。

『啓発録』で「稚心を去れ」と書いた少年が、26 年に満たない生涯で、その言葉どおりに死んだことになります。

なお、松平春嶽は左内を深く惜しみ、後年までその死を悔やんだと伝えられます。藩の期待を一身に背負った俊英を、政争のなかで失ったわけです。

橋本左内の墓

左内は当初、東京の回向院に葬られました。安政の大獄の刑死者が葬られた場所です。のちに遺骸は福井の橋本家の墓地へ改葬され、回向院には後年になって墓石が戻されました。福井では郷土の偉人として顕彰されています。

福井市には橋本左内をまつる神社や、『啓発録』を伝える施設があります。

橋本左内の年表

出来事
1834 年福井藩の藩医の子として生まれる
1848 年数え 15 歳で『啓発録』を著す
1850 年代前半大坂の適塾で緒方洪庵に学ぶ
1850 年代後半松平春嶽に登用され、藩政と外交に関わる
1858 年将軍継嗣問題で慶喜擁立のために奔走
1859 年安政の大獄で処刑される。満 25 歳

同じ大獄で処刑された人物は吉田松陰、事件全体は安政の大獄で扱っています。

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