幕末の文化

蘭学とは?適塾で誰が何を学んだのかをわかりやすく解説

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蘭学とは?適塾で誰が何を学んだのかをわかりやすく解説
緒方洪庵像(五姓田義松, 1901) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

蘭学とは、オランダ語を通して西洋の学問を学ぶことです。鎖国下の日本で開いていた、たったひとつの窓でした。

目次

蘭学とは何か

蘭学とは、長崎の出島に来るオランダ人と、そこから入るオランダ語の書物を手がかりに、西洋の知識を研究した学問です。

項目内容
時期18 世紀半ば〜19 世紀半ば
窓口長崎・出島(オランダ商館)
中心分野医学、天文暦学、砲術、化学、地理
学ぶ手段オランダ語の原書と、蘭方医が写した写本
代表的な成果『解体新書』(1774 年)
その後開国後、英学・仏学を含む洋学へ広がる

なぜオランダ語だったのか。 江戸幕府は西洋諸国のうちオランダとだけ交易を続けており、オランダ語だけが唯一の西洋への回路だったからです。蘭学者たちは英語やフランス語ではなく、まずオランダ語で世界を読みました。

蘭学はどのように始まったのか

出発点として名高いのが、『解体新書』(安永 3 年=1774 年)です。

杉田玄白・前野良沢らが、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳しました。辞書がほとんどない状態で、単語の意味を推測しながら訳したという有名な苦闘があります。

重要なのは、彼らが実際の腑分け(解剖)を見て、原書の図が正しいと確かめたことです。「書物と現物を突き合わせる」というやり方そのものが、この時に持ち込まれました。

その後、蘭学は医学から砲術・天文へ広がります。一方で幕府は蘭学を警戒もしました。天保 10 年(1839 年)の蛮社の獄では、渡辺崋山高野長英が幕政批判を理由に処罰されています。

適塾とはどんな塾だったのか

適塾(てきじゅく)は、蘭方医緒方洪庵が天保 9 年(1838 年)に大坂で開いた蘭学塾です。正式には適々斎塾といいます。

適塾の特徴は、徹底した実力主義でした。

  • 身分ではなく成績で席次が決まる。 藩も家格も関係ありません
  • 会読(かいどく)と呼ばれる輪読で、原書を訳し合って競う
  • 塾生が共有するヅーフ・ハルマ(蘭日辞書)は一部しかなく、その置かれた部屋には順番待ちの塾生が夜通し詰めていたと伝わります

辞書が足りないという物理的な制約が、そのまま競争と共同学習の仕組みになっていたわけです。

ここから出た人物を並べると、適塾の意味が見えてきます。

医学の塾から、軍制と教育と外交の中心人物が出ています。 蘭学は医術の技法である以前に、「西洋を読む力」そのものでした。それを持つ者が、幕末に引っ張り出されたのです。

蘭学から洋学へ

黒船来航以後、状況は変わります。

現れたのはアメリカ・イギリス・フランスであって、オランダではありません。オランダ語だけでは足りなくなったのです。

  • 安政 2 年(1855 年)、幕府が洋学所を設置。翌年蕃書調所として本格化します
  • 蕃書調所はのちに開成所となり、明治の東京大学へつながります
  • 福沢諭吉は横浜で自分のオランダ語が通じないことに衝撃を受け、英語へ切り替えました

蘭学は役目を終えたのではなく、洋学に姿を変えました。 蘭学が育てた「原書を読んで実物と照合する」訓練が、そのまま近代日本の学問の土台になっています。

蘭学と適塾の年表

出来事
1774 年杉田玄白・前野良沢らの『解体新書』が刊行される
1823 年シーボルトが来日し、長崎に鳴滝塾を開く
1838 年緒方洪庵が大坂に適塾を開く
1839 年蛮社の獄。渡辺崋山高野長英が処罰される
1849 年種痘の牛痘苗が長崎に入り、洪庵らが普及に動く
1855〜56 年幕府が洋学所・蕃書調所を設置。英学・仏学へ広がる
1858 年福沢諭吉が江戸で蘭学塾を開く(のちの慶應義塾)
1862 年洪庵が幕府の奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ招かれる

よくある質問

蘭学とは何ですか。

オランダ語を通じて西洋の学問(医学・砲術・天文など)を学んだ学問です。

なぜオランダ語だったのですか。

幕府が西洋のうちオランダとだけ交易を続けており、オランダ語が唯一の回路だったためです。

適塾は誰が開いたのですか。

蘭方医の緒方洪庵が、1838 年に大坂で開きました。

適塾からは誰が出たのですか。

福沢諭吉大村益次郎橋本左内大鳥圭介らです。

蘭学はいつ終わったのですか。

開国後に英学・仏学を含む洋学へ移行しました。断絶ではなく拡張です。

医学への応用は種痘と西洋医学、塾を開いた人物は緒方洪庵の記事をご覧ください。

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