幕末の偉人

緒方洪庵とは?適塾で幕末の人材を育てた医師の生涯と子孫

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緒方洪庵とは?適塾で幕末の人材を育てた医師の生涯と子孫
緒方洪庵像(五姓田義松 筆, 1901) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

幕末を動かした人材の多くが、大坂の一つの塾から出ています。 適塾。開いたのは、緒方洪庵という医師でした。

目次

緒方洪庵とは何をした人か

洪庵の仕事は、三つあります。

第一に、人を育てたこと。 適塾からは福沢諭吉大村益次郎橋本左内、大鳥圭介ら、幕末から明治にかけて各分野の中心となる人物が続々と出ました。

第二に、種痘を広めたこと。 天然痘を防ぐ牛痘接種を大坂に根づかせ、全国への普及に関わりました。

第三に、コレラと闘ったこと。 流行に際して治療法をまとめ、医師たちに配りました。

文化 7 年(1810 年)、備中の武士の家に生まれます。

学ぶ側から、教える側へ

洪庵は大坂で蘭学の医学を学び、江戸へ出て、さらに長崎でも学びました。大坂・江戸・長崎という三つの土地を順に踏んだことになります。

そして天保 9 年(1838 年)、大坂に自らの塾を開きます。適塾です。

適塾という場所

適塾の特徴は、徹底した実力主義でした。

蘭書は貴重で数がありません。塾生は限られた原書を奪い合うように読み、月に何度も試験があり、成績によって座る場所が変わりました。上へ行くほど本に触れやすくなり、下がれば読む機会を失う。

福沢諭吉は『福翁自伝』で、この塾での猛烈な勉強ぶりを回想しています。枕を使わずに寝た、という話が残るほどです。

重要なのは、適塾が身分を問わなかったことです。武士の子も町人の子も医者の子も、同じ規則のもとで競いました。大村益次郎は村医者の子でしたが、塾頭にまで上がっています。

幕末に人材が噴き出した理由の一つが、ここにあります。 身分ではなく能力で人を並べる場所が、大坂に一つあったのです。

種痘とコレラ

洪庵は教育者である前に、現場の医師でした。

天然痘に対しては、牛痘による種痘を広めます。当時、種痘には強い抵抗がありました。牛の病を人に植えるという行為が、迷信も含めた恐れを呼んだためです。洪庵は施設を作り、各地の医師と連携して普及に努めました。

安政 5 年(1858 年)にはコレラが大流行します。洪庵は治療の手引きをまとめ、医師たちに広く配りました。有効な薬のない時代に、何をすべきかを共有しようとしたのです。

知識を囲い込まず、配る。 塾も種痘もコレラも、この一点で一貫しています。

江戸での最期

文久 2 年(1862 年)、洪庵は幕府に招かれ、江戸へ移ります。将軍の侍医であり、幕府の西洋医学の責任者という地位です。

本人は大坂を離れることを望まなかったと伝えられます。塾を離れ、慣れない職務と江戸の政情のなかに置かれました。

そして翌文久 3 年(1863 年)、江戸で急死します。満 52 歳でした。喀血による突然の死だったと伝えられます。

大坂で人を育てた人物が、江戸で職務に就いた翌年に死んだことになります。

緒方洪庵の墓と子孫

洪庵の墓は大阪市の龍海寺にあり、妻の八重とともに葬られています。

大阪大学は適塾の流れを継ぐ大学の一つとされ、適塾の建物は今も大阪市内に保存されています。国の史跡として、当時の塾生が学んだ空間を見ることができます。

子孫については、医学の家系として続きました。子の一人も医師となり、明治の医学界で働いています。緒方家に伝わった資料は保存・研究の対象となっており、洪庵に関する記念事業も続けられてきました。

緒方洪庵の年表

出来事
1810 年備中の武士の家に生まれる
1830 年代大坂・江戸・長崎で蘭学と医学を学ぶ
1838 年大坂に適塾を開く
1840 年代〜種痘の普及に取り組む
1858 年コレラ流行に際し、治療の手引きをまとめる
1862 年幕府に招かれ江戸へ
1863 年江戸で急死。満 52 歳

適塾については蘭学と適塾、種痘については種痘と西洋医学で扱っています。

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