幕末の偉人

福沢諭吉とは?学問のすゝめと生涯をわかりやすく解説

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福沢諭吉とは?学問のすゝめと生涯をわかりやすく解説

刀ではなく言葉と学問によって時代を動かした人物がいます。福沢諭吉です。彼は西洋の知識を広く人々に伝え、文明開化の道を照らす啓蒙家として、近代日本に大きな足跡を残しました。

目次

福沢諭吉は何をした人か

一言でいえば、西洋の知識を日本語に置き換えて広め、学問を庶民のものにした人です。主な功績は次の四つに整理できます。

功績内容
慶應義塾の創設身分を問わず実学を教える塾を開き、近代教育の型をつくった
『学問のすゝめ』などの著述平易な言葉で書き、当時の大ベストセラーとなって啓蒙を広げた
西洋知識の翻訳・紹介『西洋事情』などで欧米の制度・暮らしを日本へ伝えた
『時事新報』の創刊言論による社会への働きかけを実践した

刀ではなく筆で時代を動かした点が、同時代の志士たちと決定的に異なります。生涯を通じて政府の官職に就かず、在野の言論人であり続けました。

福沢諭吉の写真

福沢諭吉の写真
若き日の福沢諭吉(幕末の肖像写真)出典: Wikimedia Commons PD-Japan-oldphoto

福沢諭吉が適塾で学んだ蘭学

福沢諭吉は天保5年の暮れ(西暦では1835年初頭)、大坂にあった中津藩の蔵屋敷で、藩士の子として生まれました。若くして蘭学を志し、大坂の適塾で緒方洪庵のもとに学びます。

そこで身につけたオランダ語と西洋の知識が、彼の出発点となりました。やがて、開かれた港でオランダ語が通じない現実を知った福沢は、英語の習得へと方向を切り替えていきます。学ぶべき対象を柔軟に見直す姿勢は、彼の生涯を貫く特徴でした。

福沢諭吉が見た西洋

福沢は、幕府の使節に加わって欧米へ渡る機会を得ました。勝海舟らとともに渡米した経験をはじめ、西洋社会を自らの目で見たことは、彼の思想を大きく深めます。

制度、教育、人々の暮らし。福沢は西洋の文明を表面だけでなく、その仕組みや考え方まで理解しようとしました。

福沢諭吉が創設した慶應義塾

帰国した福沢は、西洋の学問を教える塾を開きます。これがのちの慶應義塾です。彼は身分にとらわれず、実学を重んじる教育を掲げ、多くの若者を育てました。

学問を一部の特権ではなく、広く人々のものにする。その理念は、近代の教育のあり方を先取りするものでした。

福沢諭吉『学問のすゝめ』とは

明治を迎えると、福沢は『学問のすゝめ』などの著作を通じて、人々に学ぶことの大切さを説きました。

平易な言葉で書かれたその主張は広く読まれ、文明開化の機運を後押しします。独立した個人が学問によって自らを高めることが、国を富ませる。福沢の啓蒙は、新しい時代の精神を形づくっていきました。

刀の時代から知の時代へ。福沢諭吉は、その転換を象徴する人物です。

福沢諭吉の名言「天は人の上に人を造らず」の本当の意味

『学問のすゝめ』の冒頭は、日本でもっとも知られた一節のひとつでしょう。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり

ここだけが独り歩きして、しばしば「人間は生まれながらに平等である」という宣言として引かれます。しかし福沢の主張は、そこで終わっていません。

この一文には「と言えり」、つまり「そう言われている」という伝聞の形が取られています。そして福沢は直後に、現実には賢い人と愚かな人、豊かな人と貧しい人の差が厳然としてある、と続けます。ではその差はどこから生まれるのか。福沢の答えが「学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」でした。

つまり『学問のすゝめ』は平等の宣言ではなく、「生まれではなく学問こそが人の差を決めるのだから、学べ」という実学のすすめです。身分によって一生が決まっていた社会を生きた福沢にとって、これは静かですが激烈な主張でした。

福沢諭吉のエピソード

神罰を試した少年時代。 幼いころ、お札を踏んでも何も起きないことを確かめ、さらに稲荷の御神体を石ころとすり替えて、人々がそれを拝むのを見ていた。福沢は自伝『福翁自伝』でそう語っています。権威を鵜呑みにしない気質は、生涯変わりませんでした。

オランダ語から英語へ切り替えた決断。 適塾で蘭学を修めた福沢は、開港した横浜を訪ねて愕然とします。オランダ語がまるで通じなかったのです。数年かけて身につけた学問が役に立たないと知った福沢は、落胆したその翌日から英語の学習を始めたといいます。

刀を抜かなかった人。 攘夷の激しかった時期、洋学者である福沢は襲撃の危険に晒され続けました。夜道を避け、身を潜めて過ごした時期もあったと自ら記しています。生涯、人を斬ることも斬られることもなく、言葉だけで時代を動かした人物でした。

福沢諭吉の妻と家族

妻は(きん)です。中津藩士の娘で、福沢との間に四男五女をもうけました。福沢は当時としては珍しく、家庭のなかでも男女の別による差を設けないことを説き、『女大学評論』などで旧来の女性観を厳しく批判しています。

「福沢諭吉のミイラ」とは

検索でしばしば見かける話題ですが、確かな史実として裏づけられた話ではありません。

福沢は1898年に脳出血で倒れ、いったん回復したのち1901年に再発して世を去りました。晩年の姿や死後の逸話が誇張されて広まったものとみられます。遺体が特殊な形で保存されたという確かな記録はありません。

福沢諭吉はなぜお札になったのか

福沢諭吉が一万円札の肖像に採用されたのは1984年(昭和59年)からで、2024年に渋沢栄一へ交代するまで40年にわたって使われました。

採用の理由として挙げられるのは、明治以降の文化人であること、そして教育・言論の分野で近代日本の基礎を築いた人物であることです。当時の紙幣は政治家や軍人を避けて文化人から選ぶ方針がとられており、同時に採用された五千円札の新渡戸稲造、千円札の夏目漱石も同じ枠組みでした。

「福沢諭吉」が一万円札の代名詞として使われるほど定着したのは、この40年の長さによります。

福沢諭吉の年表

出来事
1835年大坂の中津藩蔵屋敷に生まれる
1854年長崎へ出て蘭学を学び始める
1855年大坂の適塾に入門。のちに塾頭となる
1858年江戸に蘭学塾を開く(慶應義塾の起点)
1860年咸臨丸で渡米
1862年幕府使節に加わり欧州各国を巡る
1866年『西洋事情』を刊行
1872年『学問のすゝめ』初編を刊行
1882年『時事新報』を創刊
1901年2月3日死去。満66歳

よくある質問

福沢諭吉は何をした人ですか。

適塾で蘭学を修めたのち英語へ転じ、慶應義塾を創設しました。『学問のすゝめ』『西洋事情』などの著作で、西洋の制度と考え方を日本に紹介しています。

「天は人の上に人を造らず」とはどういう意味ですか。

人は生まれながらに平等だと述べたうえで、現実の差は学問の有無から生まれると続く一節です。平等の宣言というより、学ぶことの勧めが主眼です。

福沢諭吉は一万円札の肖像でしたか。

はい。1984 年から 2024 年まで一万円札の肖像に使われました。

福沢諭吉は政治家になったのですか。

なっていません。生涯を教育と言論の側で通し、官職に就きませんでした。

文明開化を支えた学問は幕末の文化で、人物は幕末の偉人でたどれます。

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