幕末の偉人

山田顕義とは?戦場から法典編纂へ転じ大学を作った男の生涯

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山田顕義とは?戦場から法典編纂へ転じ大学を作った男の生涯
山田顕義 肖像(1844〜1892) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

二十代で軍を指揮した男が、四十代で民法を作りました。山田顕義。そして大学を二つ残しています。

目次

山田顕義とは何をした人か

山田は、長州藩士から明治政府の司法大臣に進んだ人物です。

その生涯は三つに折れます。

第一に、戊辰戦争の指揮官として。 二十代前半で北越・会津・箱館を転戦し、用兵の巧みさで評価されました。

第二に、法典を作った人として。 司法大臣を七年以上務め、民法・商法・刑法の編纂を主導しました。

第三に、学校を作った人として。 現在の日本大学國學院大學は、いずれも山田が関わって生まれています。

天保 15 年(1844 年)に生まれ、明治 25 年(1892 年)に没しました。

山田顕義は松下村塾の最年少級だった

山田は長州萩の藩士の家に生まれ、松下村塾吉田松陰に学びました。

入塾したのは数えで十代半ばです。塾生の中でも最も若い層にあたります。高杉晋作久坂玄瑞が藩論を動かしていた時期、山田はまだ少年でした。

この年齢差が、彼の生涯を分けました。双璧が二十代で死んだのに対し、山田は明治を四半世紀生きて、制度を作る側に回れたのです。

山田顕義の二十代の軍歴

慶応 4 年(1868 年)、戊辰戦争が始まります。山田は満 23 歳でした。

彼は各地を転戦します。北越では長岡の河井継之助と戦い、会津へ進み、最後は箱館五稜郭攻略に加わりました。

この短期間で、山田は指揮官としての評価を確立します。

彼を評した言葉として広く伝えられるのが、大村益次郎による「用兵の妙、神の如し」というものです。ただしこの評言は後年に語られたもので、原典と正確な文言については諸説があります。

また彼は「小ナポレオン」とも呼ばれました。小柄な体格と、若さに見合わない用兵の巧みさからです。

山田顕義が戦場から法へ移った理由

明治 4 年(1871 年)、山田は岩倉使節団に加わって欧米へ渡ります。

使節団の目的は条約改正の打診と制度の調査でした。山田が集中したのは法律です。フランスやドイツの法典を、実際に学び直しました。

理由は明快でした。不平等条約を改正するには、日本に西洋が納得する法体系が必要になる。外国人を日本の法廷で裁けるようにするには、その法廷と法典を先に作らなければならない。

軍人が法律家になったのは、思想的な転向ではなく、目的から逆算した選択でした。

山田顕義は司法大臣として何をしたか

山田は明治 16 年(1883 年)に司法卿となり、明治 18 年(1885 年)の内閣制度発足後は初代司法大臣を務めました。司法の長としての在任は通算で七年を超え、歴代でも屈指の長さです。

この期間にやったことは膨大です。

法典の編纂。 フランスの法学者ボアソナードは明治 6 年(1873 年)に政府が招聘した人物で、山田はこのボアソナードとともに刑法・治罪法・民法の編纂を進めました。刑法編纂委員長を務めたのは明治 8 年(1875 年)からです。日本で最初の近代的な法典群にあたります。

裁判所制度の整備。 裁判所構成法を作り、司法の組織を固めました。

法律家の養成。 そして彼は、法律を学ぶ学校が足りないことに気づきます。法典を作っても、それを使える人間がいなければ動かないからです。

山田顕義が作った二つの大学

明治 22 年(1889 年)、山田は日本法律学校の設立に関わります。これが現在の日本大学です。同じ年、皇典講究所の初代所長にも就いています。

そして翌明治 23 年(1890 年)7 月、その皇典講究所を母体として國學院が設立されます。現在の國學院大學です。こちらは日本の古典と歴史を研究する学校でした。

西洋の法典を作った人物が、同時に日本の古典を学ぶ学校も作ったことになります。

山田の考えはこうでした。西洋の法を移植するだけでは根づかない。日本の慣習と歴史を知る人間が、それを日本の実情に合わせて運用しなければならない、と。

山田顕義の最期

明治 25 年(1892 年)11 月、山田は視察先で急死しました。満 47 歳です。

彼が推し進めた旧民法は、生前の明治 23 年(1890 年)に公布されています。しかしボアソナードの草案は日本の家族制度に合わないという批判を受け、法典論争の末に施行が延期され、ついに施行されませんでした

死後、修正された民法が明治 29 年・31 年(1896・98 年)に公布され、明治 31 年(1898 年)に施行されます。自分の法典が使われるところは見ていないことになります。しかし裁判所の仕組みと、法律家を育てる学校は残りました。

山田顕義の年表

出来事
1844 年長州萩の藩士の家に生まれる
1850 年代後半松下村塾で吉田松陰に学ぶ(最年少級)
1868 年戊辰戦争で北越・会津を転戦。満 23 歳
1869 年五稜郭攻略に加わる
1871 年岩倉使節団に加わり欧米へ。法制度を学ぶ
1875 年刑法編纂委員長となる(ボアソナードは 1873 年に政府が招聘)
1883 年司法卿に就任
1885 年内閣制度の発足にともない初代司法大臣。通算七年以上
1889 年日本法律学校(現・日本大学)設立に関わり、皇典講究所の初代所長となる
1890 年皇典講究所を母体に國學院を設立。旧民法が公布される
1892 年急死。満 47 歳

同じ松下村塾の門下生は高杉晋作久坂玄瑞品川弥二郎、北越で戦った相手は河井継之助です。

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