川路聖謨とは?ロシアと交渉し江戸城明け渡しの直前に自決した幕臣

江戸城の総攻撃が予定されていたその日、一人の老いた幕臣が自ら命を絶ちました。川路聖謨。千島の国境を交渉で決めた男です。
目次
川路聖謨とは何をした人か
川路は、江戸幕府の役人です。読み方は「かわじ としあきら」。
その生涯は三つに分けられます。
第一に、身分を実力で越えた人として。 地方役人の子から、幕府の勘定奉行——財政と民政を統べる要職まで昇りました。
第二に、ロシアとの交渉役として。 プチャーチンと向き合い、日露和親条約をまとめました。その交渉ぶりは、ロシア側の記録にも高く評価されて残っています。
第三に、幕府とともに死んだ人として。 慶応 4 年(1868 年)、江戸城の総攻撃が予定されていた日に自決しました。
享和元年(1801 年)に生まれ、慶応 4 年(1868 年)に没しています。
川路聖謨の肖像

川路聖謨が御家人株を買って幕臣になるまで
川路は、豊後日田(現在の大分県)の代官所に勤める下級役人の子として生まれました。幕臣の家柄ではありません。
父は江戸へ出て、御家人の株を買いました。当時、幕臣の身分は売買されており、金を出せば下級幕臣になることができたのです。
川路は、その買った身分から出発しました。
そこから彼は昇っていきます。勘定所の下役から始まり、佐渡奉行、奈良奉行、大坂町奉行を歴任し、勘定奉行に至りました。幕府の官僚機構のなかで、実務能力だけでここまで昇った例は多くありません。
奈良奉行の時代には、荒れた土地に数万本の桜を植えさせたと伝えられます。任地ごとに実務で成果を残す種類の役人でした。
川路聖謨とプチャーチンの交渉
嘉永 6 年(1853 年)、ペリーが浦賀に来たのと同じ年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航します。
要求は、国交と、そして国境の画定でした。当時、樺太と千島列島の帰属は曖昧なままだったのです。
交渉役に選ばれたのが川路でした。
長崎、そして下田で、交渉は数年にわたって続きます。その途中、下田で大地震と津波が起こり、ロシア船ディアナ号が大破するという事件も挟まりました。
安政元年 12 月(西暦では 1855 年 2 月)、日露和親条約が結ばれます。択捉島と得撫島のあいだに千島の国境を定め、樺太については境界を定めないという内容でした。日露間の国境が全部決まったわけではなく、樺太は未画定のまま残されました。
ロシア側が書き残した川路聖謨
この交渉で特筆されるのは、相手側の記録です。
プチャーチンに同行した作家ゴンチャローフは、日本での見聞を紀行として残しました。そのなかで、彼は川路について強い敬意をもって書いています。
頭の回転が速く、機知があり、ヨーロッパのどの社交の場に出しても通用する人物だ——おおむね、そうした評価です。当時のヨーロッパ人が非西洋の役人をこう書くのは、かなり珍しいことでした。
川路は、譲れない一線を譲らないまま、相手に敬意を持たせたわけです。交渉というものの一つの形が、ここにあります。
川路聖謨と安政の大獄、その晩年
しかし国内では、川路の立場は安泰ではありませんでした。
将軍継嗣問題で一橋慶喜を推す側に立ったため、大老・井伊直弼の安政の大獄の余波で左遷され、やがて隠居させられます。
その後、体調も崩しました。中風で半身が不自由になり、思うように動けなくなります。
川路聖謨の最期と自決の日
慶応 4 年 3 月(西暦では 1868 年 4 月)、戊辰戦争は江戸に迫っていました。
新政府軍による江戸城総攻撃の予定日として定められていたのが、慶応 4 年 3 月 15 日——西暦の 1868 年 4 月 7 日です。攻撃自体は、前日の勝海舟と西郷隆盛の会談によって回避されました。
その 3 月 15 日、川路は自ら命を絶ちます。なお、江戸城が実際に新政府へ引き渡されたのは慶応 4 年 4 月 11 日——西暦の 1868 年 5 月 3 日で、総攻撃の予定日から 26 日後でした。
半身が不自由で、作法どおりの割腹が果たせなかったため、短銃を用いたと伝えられます。日本人がピストルで自決した最も早い例の一つとされます。
満 66 歳でした。
幕府の役人として昇りつめた男が、幕府の終わりに合わせて死んだことになります。
川路聖謨の遺したもの
川路は筆まめな人で、任地ごとの日記を残しました。『長崎日記』『下田日記』などが伝わり、幕末の交渉と役人の日常を知る一級の史料になっています。
外交の記録を、相手側と自分側の両方から読める——幕末の人物として、これは珍しいことです。
川路聖謨の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1801 年 | 豊後日田の下級役人の子として生まれる |
| 1810 年代 | 父が御家人株を買い、幕臣となる |
| 1840〜50 年代 | 佐渡奉行・奈良奉行・大坂町奉行を経て勘定奉行へ |
| 1853 年 | ロシアのプチャーチンと長崎で交渉を開始 |
| 1855 年 2 月 | 日露和親条約を締結(和暦では安政元年 12 月) |
| 1850 年代後半 | 安政の大獄の余波で左遷・隠居 |
| 1868 年 4 月 7 日 | 江戸城総攻撃の予定日に自決。満 66 歳(引き渡しは 5 月 3 日) |
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