井上馨とは?長州ファイブから初代外務大臣になった生涯

畳を縫う針で、五十数針を縫って助かったと伝えられる男がいます。井上馨。のちに日本の初代外務大臣になりました。
目次
井上馨とは何をした人か
井上馨は、長州藩士から明治政府の中枢に進んだ政治家です。幕末の名は井上聞多。
その働きは三つに分けられます。
第一に、密航留学生として。 攘夷を叫んでいた青年が、イギリスへ密航して西洋の実力を目撃し、そのまま考えを変えました。
第二に、財政家として。 明治政府で大蔵の実務を握り、のちに実業界にも深く関わります。
第三に、初代外務大臣として。 不平等条約の改正に取り組み、鹿鳴館の時代を作りました。そして、その方法が批判を浴びて辞任します。
天保 6 年 11 月(西暦では 1836 年 1 月)に生まれ、大正 4 年(1915 年)に没しました。
井上馨と長州ファイブ
文久 2 年(1862 年)、聞多は高杉晋作や伊藤博文らとともに、品川のイギリス公使館を焼き討ちしています。筋金入りの攘夷派でした。
ところが翌文久 3 年(1863 年)、その同じ顔ぶれの一部がイギリスへ密航します。井上聞多、伊藤博文、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三——後年「長州ファイブ」と呼ばれる五人です。
当時、海外渡航は重罪でした。それでも藩の資金で、商社の手引きにより、彼らは船に乗ります。目的は「敵を知る」ことでした。
そしてロンドンで、攘夷が不可能であることを完全に理解します。軍艦の数、工場の規模、鉄道と港湾。「追い払う」という発想そのものが成立しないと悟ったのです。
井上馨の命がけの帰国
元治元年(1864 年)、二人のもとに報せが届きます。長州が外国艦隊と戦争になる、と。
井上と伊藤は、学業を捨てて帰国しました。戦っても勝てない、開国して力をつけるほかないと藩に説くためです。
しかし藩は聞きませんでした。四国連合艦隊が下関を砲撃し、長州は完敗します。
そしてその直後、井上自身が斬られました。
元治元年 9 月(西暦では 1864 年 10 月)、藩内の保守派に襲撃され、全身に深手を負います。虫の息の井上を助けたのは、医師の所郁太郎でした。焼酎で傷を洗い、畳針で五十数針を縫合して命を取り留めたと伝えられます。襲撃と所の治療そのものは記録に残る事実ですが、針数などの細部は後年の伝承です。
この重傷から井上は回復し、高杉晋作の挙兵に合流して藩論をひっくり返しました。
井上馨の明治政府での仕事
維新後、井上は財政の実務を担います。大蔵省の次官格として予算を握りました。
しかし明治 6 年(1873 年)、予算の膨張に反対して辞職します。同じころ、鉱山の払い下げをめぐる尾去沢銅山事件で私利を疑われ、江藤新平の司法省に追及されました。
政府を離れた井上は実業に転じ、貿易商社を興します。この会社が、のちの三井物産の母体になりました。井上と三井の縁はここから始まり、生涯続きます。彼が「三井の大番頭」と呼ばれるのはそのためです。
井上馨の鹿鳴館外交と条約改正
明治 18 年(1885 年)、伊藤博文が初代内閣総理大臣になると、井上は初代外務大臣に就きました。
課題は不平等条約の改正です。幕末に結ばれた条約は、関税を自由に決められず、外国人を日本の法で裁けないという内容でした。
井上の方法は、「日本は西洋と同じ文明国である」と欧米に認めさせることでした。西洋式の建物を建て、舞踏会を開き、洋装で外交を行う——鹿鳴館の時代です。
しかし交渉の中身が問題になりました。改正の条件として、外国人を裁判官に任用する案が含まれていたのです。これが漏れると、政府の内外から猛烈な批判が起こりました。
明治 20 年(1887 年)、井上は外務大臣を辞任します。鹿鳴館の華やかさは、しばしば「上滑りの欧化」として批判されました。
井上馨の性格
井上は、気が短いことで知られました。怒鳴る、机を叩く、部下を叱り飛ばす。「雷おやじ」と呼ばれています。
一方で、伊藤博文との友情は生涯変わりませんでした。密航した船の中から、初代内閣、そして元老として国政の背後に回るまで、二人は組み続けます。伊藤が暗殺されたとき、井上は深く落胆したと伝えられます。
表舞台の華やかさより、金と人事を動かす裏の実務——それが井上の得意な領域でした。政府の要職を離れたあとも、元老として歴代内閣に影響を与え続けます。
井上馨の最期
大正 4 年(1915 年)9 月、静岡・興津の別荘で没しました。満 79 歳です。
幕末に公使館を焼いた青年が、外務大臣として西洋と交渉し、大正まで生きたことになります。
井上馨の年表
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