大隈重信とは?早稲田を創り爆弾で片脚を失った生涯と名言

右脚を爆弾で失ってから、なお 30 年にわたって政界に戻り続けた人物がいます。大隈重信。日本で最初の政党内閣を率い、早稲田大学を創った人物です。
目次
大隈重信は何をした人か
大隈の業績は、三つの柱に整理できます。
第一に、明治政府の財政を組み立てたこと。 大蔵卿として、円という通貨単位の導入や地租改正といった、近代日本の経済の土台づくりに関わりました。
第二に、政党政治を始めたこと。 政府を追われたのち立憲改進党を結成し、のちに日本で最初の政党内閣を率いました。
第三に、早稲田大学を創ったこと。 東京専門学校として設立したこの学校は、官が作る大学とは別の系譜を日本の高等教育に刻みました。
佐賀から明治政府へ
天保 9 年(1838 年)、肥前佐賀藩士の家に生まれます。
佐賀藩は、幕末において特異な位置にありました。長崎の警備を担ったことから西洋の情報が入りやすく、藩主・鍋島直正のもとで反射炉や大砲の製造など、技術面で他藩を大きく引き離していた藩です。
大隈は藩校で学びますが、儒学中心の教育に反発して騒動を起こし、退学処分を受けています。その後、蘭学を学ぶ道へ進みました。既存の権威に噛みつく気質は、生涯変わりません。
明治維新後、新政府に出仕した大隈は、外交と財政で頭角をあらわします。薩摩・長州が主導する政府のなかで、肥前出身でありながら中枢に食い込んだ数少ない人物でした。
明治十四年の政変
明治 14 年(1881 年)、大隈は政府を追われます。
原因は一つではありません。大隈がイギリス流の議院内閣制を早期に導入すべきだと主張して伊藤博文らと対立したこと、財政政策上の食い違い、そして開拓使官有物払下げ事件をめぐる政府批判の高まりが重なりました。大隈が民間勢力と通じているのではないかという疑念も、政府内部で語られています。
対立の末、大隈は政府から排除されます。明治十四年の政変です。なお伊藤がプロイセン流の憲法を本格的に調査するのは政変の翌年からで、この時点で完成した路線があったわけではありません。
しかし大隈は、これを終わりにしませんでした。翌年、立憲改進党を結成して政党政治の側に立ち、同じ年に東京専門学校――のちの早稲田大学を創ります。
政府の外に、政党と学校という二つの拠点を同時に作った。 追放をそのまま組織づくりに転換した手際は、彼の真骨頂です。
爆弾で片脚を失う
明治 21 年(1888 年)、大隈は外務大臣として条約改正の交渉にあたります。
幕末に結ばれた不平等条約――治外法権と関税自主権の欠如――をどう解消するかは、明治日本の最大の外交課題でした。大隈が進めた案は現実的な妥協を含むもので、これが「不十分だ」とする強硬な反対を招きます。
明治 22 年(1889 年)10 月 18 日、外務省の門前で、大隈の馬車に爆弾が投げつけられました。実行したのは玄洋社の来島恒喜。外国人判事の任用を含む改正案に反対しての凶行で、来島はその場で自ら命を絶っています。
大隈は右脚を切断する重傷を負い、同年 12 月に外相を免ぜられました。
しかし彼は政界に戻ってきます。 義足で公務に復し、以後 30 年にわたって、退隠と復帰を繰り返しながら要職に就き続けました。
日本初の政党内閣
明治 31 年(1898 年)、大隈は板垣退助と手を結び、日本初の政党内閣を組織しました。二人の名から「隈板内閣」と呼ばれます。
ただし全閣僚が政党人だったわけではありません。陸軍大臣と海軍大臣には軍・藩閥系の人物が就いており、政党が押さえたのはそれ以外の閣僚です。
内部対立によりこの内閣は数か月で終わりますが、政党を基盤とする政権が初めて生まれたという一点で、日本の政治史における画期でした。
大正 3 年(1914 年)には再び首相となり、第一次世界大戦への参戦を決めています。この時期の中国政策には、今日厳しい評価が下されるものも含まれます。
大隈重信の言葉
大隈は演説の名手として知られ、多くの言葉を残しました。なかでも有名なのが、人間は本来 125 歳まで生きられるという持論です。
摂生をすれば人の寿命は 125 歳に達するはずだ――これは後世の伝説ではなく、大隈自身が談話として語り、活字にも残っている主張です。規則正しい生活の必要をあわせて説いていました。実際には 83 歳で世を去っています。
片脚を失った人物が、人間は 125 歳まで生きられると論じていたところに、この人の気質がよく出ています。
なお、大隈の言葉として引かれるもののなかには、演説集などの原典にあたって確かめる必要があるものもあります。引用する際は出典を確認したほうがよい人物です。
最期
大正 11 年(1922 年)1 月、大隈は 83 歳で世を去りました。
葬儀には市民が大挙して詰めかけ、国民葬と呼ばれる規模になりました。藩閥政治家としてではなく、政党と学校を作った民間側の指導者として惜しまれたことを示す光景です。
大隈重信の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1838 年 | 肥前佐賀藩士の家に生まれる |
| 1868 年 | 新政府に出仕。外交と財政で頭角をあらわす |
| 1870 年 | 参議となる |
| 1873 年 | 参議のまま大蔵卿を兼ねる |
| 1881 年 | 明治十四年の政変で政府を追われる |
| 1882 年 | 立憲改進党を結成。東京専門学校(早稲田大学)を創立 |
| 1888 年 | 外務大臣として条約改正にあたる |
| 1889 年 | 10 月 18 日、来島恒喜に爆弾で襲撃され右脚を失う。12 月に外相を免ぜられる |
| 1898 年 | 板垣退助と組み、日本初の政党内閣を組織 |
| 1914 年 | 再び首相となる |
| 1922 年 | 死去。83 歳 |
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