幕末の偉人

由利公正とは?日本初の政府紙幣を作り銀座を煉瓦街にした男

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由利公正とは?日本初の政府紙幣を作り銀座を煉瓦街にした男
由利公正 肖像(1829〜1909) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

坂本龍馬が「新政府の金は、この男に任せる」と考えた相手がいます。由利公正。福井藩の下級藩士でした。

目次

由利公正とは何をした人か

由利は、福井藩士から明治政府の財政担当に進んだ人物です。もとの名は三岡八郎

その仕事は三つに集約されます。

第一に、福井藩の財政を立て直したこと。 藩札を発行し、生糸を輸出して、傾いた藩の財政を黒字にしました。

第二に、日本で最初の政府紙幣を発行したこと。 明治政府の太政官札(金札)です。元手のない新政府に、金を作り出しました。

第三に、東京府知事として銀座を煉瓦街にしたこと。 大火で焼けた銀座を、日本初の本格的な西洋式街区として作り直しました。

文政 12 年(1829 年)に生まれ、明治 42 年(1909 年)に没しています。

由利公正の藩札と生糸の改革

三岡八郎は福井藩の下級藩士でした。家柄では藩政に届く立場ではありません。

彼を引き上げたのが、藩主・松平春嶽です。春嶽は身分を問わず人を使う藩主で、同じ時期に橋本左内も抜擢しています。

三岡がやったことは、当時としては相当に踏み込んだ経済政策でした。

藩内に物産の集荷と販売を扱う会所を作りました。 領内の産物を藩が集め、まとめて売る仕組みです。

藩札を発行しました。 藩が独自に出す紙のお金です。信用が落ちれば紙屑になる危険なものですが、三岡はこれを流通させました。

生糸を輸出しました。 横浜が開港し、生糸が最大の輸出品になっていた時期です。福井藩はこの波に乗りました。

結果として、福井藩の財政は改善しました。紙幣と輸出で藩の経済を回すという発想は、のちに彼が国の規模でやることの予習でした。

由利公正を坂本龍馬が訪ねてきた話

慶応 3 年(1867 年)、坂本龍馬が福井へやってきます。

このとき三岡は、藩内の事情で謹慎中の身でした。龍馬はわざわざその居所を訪ね、新政府の財政を担ってほしいと説いたと伝えられます。

新国家の会計は、三岡でなければ務まらない」という趣旨のことを、龍馬が語ったとされます。言葉の正確な形は伝承によって異なります。

この会談は慶応 3 年 10 月 30 日、西暦では 1867 年 11 月 25 日のことでした。その 15 日後、龍馬は京都で暗殺されます。

しかし話は残りました。三岡は新政府に招かれ、財政の実務を担うことになります。

由利公正と太政官札

明治元年(1868 年)、新政府は絶望的な状態にありました。

戦争をしているのに、金がないのです。幕府が持っていた財源は接収しきれておらず、諸藩からの献金も限られています。このままでは戊辰戦争を続けられない。

由利が出した答えが、太政官札でした。政府が発行する紙のお金です。

これは日本で最初の全国通用の政府紙幣でした。金や銀の裏付けは十分ではありません。「新政府が保証する」という信用だけで通用させるという賭けです。

福井でやった藩札の、国家版でした。

太政官札には問題も出ました。流通を強制したことによる混乱、偽札、価値の下落。批判は激しく、由利自身も責任を問われる立場になります。

しかし、戦費と初期の政府運営費は、これで賄われました。

由利公正と五箇条の御誓文

もう一つ、由利の名が残る仕事があります。

慶応 4 年 3 月 14 日——西暦では 1868 年 4 月 6 日に出された五箇条の御誓文です。新政府の基本方針を示した文書で、明治への改元は同年 9 月なので、年初に遡って明治元年と数えられます。

この原案「議事之体大意」を書いたのが由利でした。土佐の福岡孝弟が修正を加え、さらに木戸孝允が手を入れて、最終形になったとされます。

広く会議を興し、万機公論に決すべし」という有名な一節を含む文書の、最初の草稿を書いた人物です。

由利公正と銀座煉瓦街

明治 5 年(1872 年)、由利は東京府知事になります。

同じ年、銀座一帯が大火で焼けました。

由利はこの焼け跡を、西洋式の街として作り直すことを決めます。煉瓦造りの建物を並べ、道幅を広げ、歩道を設け、街路樹とガス灯を置く——日本で最初の、計画された西洋式街区です。

銀座煉瓦街と呼ばれました。

評価は分かれます。煉瓦造りは日本の気候に合わず湿気がこもり、住みにくいと嫌われました。入居が進まず、空き家も出ています。

しかし、「銀座」が近代日本を代表する街になったのは、ここが起点です。街の作り替えを、火事の直後に決断したことの結果でした。

由利公正の晩年

由利はその後、元老院議官や貴族院議員を務め、明治 42 年(1909 年)に没しました。満 79 歳です。

幕末の福井で藩札を刷った男が、日露戦争のあとまで生きたことになります。

彼が扱ったものは、一貫して「信用でお金を作る」という仕組みでした。藩札、太政官札、そして街の再開発。元手が無いところから価値を立ち上げるのが、由利公正の仕事でした。

由利公正の年表

出来事
1829 年福井藩の下級藩士の家に生まれる(三岡八郎)
1850 年代松平春嶽に登用され、藩財政を担当
1850〜60 年代物産会所・藩札・生糸輸出で福井藩の財政を立て直す
1867 年 11 月 25 日坂本龍馬が福井に訪ねる。15 日後に龍馬は暗殺される
1868 年 4 月 6 日五箇条の御誓文が発せられる(慶応 4 年 3 月 14 日)。その原案を起草
1868 年太政官札を発行。日本初の全国通用の政府紙幣
1872 年東京府知事となり、大火後の銀座煉瓦街を建設
明治後期元老院議官・貴族院議員を務める
1909 年没。満 79 歳

登用した藩主は松平春嶽、同じ藩の同時代人は橋本左内、訪ねてきたのは坂本龍馬です。

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