幕末の文化

横浜開港とは?いつ開港し、なぜ横浜だったのかを解説

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横浜開港とは?いつ開港し、なぜ横浜だったのかを解説
横浜絵《再改横浜風景》(歌川貞秀, 1861) / 出典: Wikimedia Commons PD-old

横浜開港は 1859 年 7 月 1 日。百戸ほどの漁村が、十年で日本最大の貿易港になりました。その経緯を整理します。

目次

横浜開港はいつ、なぜ横浜だったのか

開港は安政 6 年 6 月 2 日(1859 年 7 月 1 日)です。前年の日米修好通商条約で決まった開港場のひとつでした。

ところが、条約に書かれていた地名は「神奈川」です。 横浜ではありません。

神奈川宿は東海道の宿場で、大名行列も旅人も通る幹線上にあります。ここに外国人が住めば、生麦事件のような衝突が日常的に起きかねません。攘夷の空気が強まるなか、幕府はそれを避けたかった。

そこで幕府は、神奈川宿から入り江を挟んだ対岸の横浜村——戸数百程度の半農半漁の村——に港と居留地を整備し、「ここも神奈川のうちだ」と押し通しました。

諸外国は当然抗議しましたが、埠頭も運上所も建物も揃っていたのは横浜だけです。商人たちは結局そこへ集まり、横浜が既成事実になりました。

「街道から隔離したい幕府」と「早く商売を始めたい外国商人」の利害が、たまたま一致したわけです。

外国人居留地はどんな場所だったのか

開かれた市街は、運河と堀で囲まれた区画でした。この内側が関内(かんない)で、地名として今も残っています。

区域性格
関内・山下町外国人居留地。商館・領事館・銀行が並ぶ
関内の西側日本人町。日本商人の店と役所(運上所)
山手高台の外国人住宅地。教会・学校・墓地
関外職人や労働者が集まった市街

居留地には居留地警察や消防、外国語新聞、外国人向けのホテルや劇場が置かれ、日本の中の別空間として運営されました。イギリス・フランスの軍隊が駐屯した時期もあります(生麦事件後の警備強化として)。

治外法権(領事裁判権)があったため、居留地内の外国人は日本の法では裁けません。これが後年の条約改正運動の焦点になります。居留地制度が廃止されるのは、1899 年(明治 32 年)でした。

横浜開港は貿易をどう変えたのか

輸出の主役は、生糸でした。

当時ヨーロッパでは蚕の病気が流行し、生糸が不足していました。そこへ日本産の生糸が飛び込んだわけです。茶がこれに続きます。

輸入は、毛織物・綿織物、そして武器。幕末の各藩が買った小銃や軍艦の多くは、この港を通っています。 トーマス・グラバーのような貿易商が力を持ったのもこの時期です。

しかし、急な貿易開始は国内経済を揺さぶりました。

  • 生糸が輸出に回り、国内の織物業が原料不足に陥る
  • 金銀の交換比率の差から大量の金が流出し、万延の改鋳と物価高を招く
  • 物価高が庶民の生活を直撃し、攘夷の主張に燃料を供給する

開港は経済の話であると同時に、政治の火種でもありました。

横浜から広まったもの

居留地は、西洋のものが最初に上陸する窓口でした。日本で「最初」を名乗るものが横浜に集中しているのはそのためです。

牛鍋——肉食の習慣がなかった日本に、牛肉を食べる店が現れました。文明開化の象徴として東京へ広がります。

新聞——外国語新聞が発行され、やがて日本語の新聞へつながりました。

写真——幕末の写真の重要な現場のひとつです。外国人写真師と日本人写真師が居留地で交わりました。

そのほか——パン、ビール、アイスクリーム、洋裁、テニス、競馬、ガス灯。「日本初」の多くがここから始まっています。

横浜開港の年表

出来事
1858 年日米修好通商条約。神奈川ほかの開港が決まる
1859 年 7 月 1 日横浜開港(安政 6 年 6 月 2 日)。運上所と居留地が開かれる
1862 年生麦事件。横浜近郊で薩摩藩士がイギリス人を殺傷する
1863 年薩英戦争。居留地の警備が強化される
1866 年豚屋火事で居留地と関内の大半が焼失。以後、街区が整備される
1872 年新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通
1899 年条約改正により居留地制度が廃止される

横浜開港のゆかりの地

横浜開港資料館(横浜市中区)——旧イギリス領事館の建物を使った資料館です。

日本大通り・関内——居留地と日本人町を隔てた区画がそのまま街路として残ります。

山手西洋館・外国人墓地——高台の居留地の姿を伝えます。

生麦事件碑(横浜市鶴見区)——開港が招いた衝突の現場です。

よくある質問

横浜開港はいつですか。

1859 年 7 月 1 日(安政 6 年 6 月 2 日)です。

条約では神奈川だったのに、なぜ横浜が開かれたのですか。

神奈川宿は東海道の宿場で外国人との衝突が起きやすいため、幕府が入り江の対岸の横浜村に港と居留地を整えて既成事実にしました。

外国人居留地とは何ですか。

外国人が居住・営業した区域です。領事裁判権が及び、日本の法では裁けませんでした。1899 年に廃止されています。

横浜から輸出された主なものは何ですか。

生糸です。次いで茶。輸入は毛織物・綿織物と武器が中心でした。

横浜が「日本初」の街と呼ばれるのはなぜですか。

牛鍋、ビール、アイスクリーム、新聞、鉄道、競馬など、西洋由来のものが最初に上陸する窓口だったためです。

開国の経緯は黒船来航、貿易商の実像はトーマス・グラバー、通貨の混乱は万延小判の記事をご覧ください。

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