高橋泥舟とは?幕末三舟に数えられた槍の名手の生涯

勝海舟・山岡鉄舟と並んで「幕末三舟」と呼ばれた人物がいます。高橋泥舟。三人のなかで、最も知られておらず、最も何も求めなかった男です。
目次
高橋泥舟とは何をした人か
泥舟は、幕臣であり、槍術の達人です。
その働きは三つに分かれます。
第一に、槍の名手として。 山岡流(忍心流)の槍術を継ぎ、幕府の武術教育機関である講武所で教授を務めました。
第二に、徳川慶喜の側近として。 大政奉還のあと、慶喜が恭順を貫くよう支え続けました。慶喜が水戸で謹慎する際にも付き従っています。
第三に、山岡鉄舟を西郷のもとへ送り出した人として。 江戸城無血開城の下交渉を担った鉄舟は、泥舟が推挙したとされます。
天保 6 年(1835 年)に生まれ、明治 36 年(1903 年)に没しました。
高橋泥舟の写真

高橋泥舟の槍の家という出自
泥舟は、山岡家という槍術の家に生まれました。そして母方の高橋家へ養子に入り、高橋姓を名乗ります。
兄の山岡静山は、槍の天才と称された人物です。しかし安政 2 年(1855 年)、静山は若くして急死してしまいます。
このとき山岡家を継いだのは、静山の門人だった小野鉄太郎でした。彼は泥舟の妹を妻に迎え、山岡姓を名乗ります。のちの山岡鉄舟です。
つまり泥舟と鉄舟は、義理の兄弟です。そして二人はその後の生涯を通じて、行動をともにすることになります。
泥舟は槍の腕を認められ、講武所の教授方となりました。幕府が洋式軍事と伝統武術の両方を教えるために設けた機関です。
高橋泥舟と徳川慶喜
慶応 3 年(1867 年)の大政奉還、そして翌年の鳥羽・伏見の戦い。徳川慶喜は大坂から江戸へ戻り、上野の寛永寺で謹慎に入ります。
このとき幕臣たちは割れていました。「戦うべきだ」という主戦派と、「恭順すべきだ」という一派です。
泥舟は、慶喜が恭順を貫くことを支え続けました。遊撃隊の頭取として慶喜の身辺を固め、主戦派が慶喜を担ぎ出そうとするのを防いだのです。
もし慶喜が担ぎ出されて江戸で戦っていたら、江戸は焼けていた——そう考えると、泥舟の役割は決して小さくありません。
高橋泥舟が山岡鉄舟を推した理由
慶応 4 年(1868 年)3 月、新政府軍が江戸に迫ります。
誰かが西郷隆盛のところへ行き、話をつけなければなりませんでした。敵軍の陣中に単身乗り込む役です。
泥舟自身が行きたかったと伝えられます。しかし彼は、慶喜のそばを離れられませんでした。主戦派が慶喜に近づくのを、彼が押さえていたからです。
そこで彼が推薦したのが、義弟の山岡鉄舟でした。
鉄舟は駿府へ向かい、西郷隆盛と直接会って条件をまとめます。その上で勝海舟と西郷の会談が行われ、江戸城は無血で明け渡されました。
江戸が焼けなかった経緯には、この三人がそれぞれの位置で関わっていることになります。「幕末三舟」という呼び名は、後年のものですが、この構図をよく表しています。
高橋泥舟が明治に何も求めなかった理由
維新後、三人の道は分かれました。
勝海舟は明治政府に出仕し、伯爵になりました。山岡鉄舟は明治天皇の側近を務めます。
泥舟は、一切の官職を断りました。
新政府からの誘いを受けず、静岡へ移った慶喜のもとに一時身を寄せ、のちに東京で隠棲します。生活は豊かではありませんでした。書を書いて暮らしたと伝えられます。
「泥舟」という号は、泥でできた舟——水に入れば沈む舟という意味です。自らをそう名乗った理由については諸説ありますが、沈む舟に乗り続けた自分を指したという読み方が広く行われています。
徳川という舟が沈んだあと、彼は新しい舟に乗り換えませんでした。
高橋泥舟の最期と墓
明治 36 年(1903 年)2 月、東京で没しました。満 67 歳です。
墓は東京にあり、山岡鉄舟の墓と近い場所に営まれています。義兄弟は、死後も近くにいることになりました。
泥舟の書は今日も残っており、書家としての評価も定着しています。
高橋泥舟の年表
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