幕末の偉人

タウンゼント・ハリスとは?ペリーとの違いと日米修好通商条約

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タウンゼント・ハリスとは?ペリーとの違いと日米修好通商条約
タウンゼント・ハリス 肖像写真(米国議会図書館蔵) / 出典: Wikimedia Commons Public domain

ペリーは軍艦で港を開かせました。ハリスは、下田の寺に腰を据えて条約を結びました。 同じアメリカ人でも、日本にしたことはまるで違います。

目次

タウンゼント・ハリスとは何をした人か

タウンゼント・ハリスは、初代の駐日アメリカ総領事です。

彼がやったことは、はっきりしています。安政 5 年 6 月 19 日(1858 年 7 月 29 日)の日米修好通商条約を結んだこと。 貿易のための条約であり、ペリーが結んだ日米和親条約(1854 年)の先にある、本格的な開国の取り決めでした。

そのために彼は、安政 3 年(1856 年)から通訳のヒュースケンと数人の使用人だけを連れて下田の寺に住み、二年近く交渉を続けています。

1804 年 10 月 3 日にニューヨーク州で生まれ、1878 年 2 月 25 日にニューヨークで没しました。満 73 歳です。

ペリーとハリスの違い

この二人は、よく混同されます。並べると役割がはっきりします。

観点ペリーハリス
立場海軍軍人(東インド艦隊司令長官)商人出身の外交官(総領事)
来日嘉永 6 年(1853 年)/翌年再来安政 3 年(1856 年)
手段艦隊による威圧常駐しての交渉
結んだ条約日米和親条約(1854 年)日米修好通商条約(1858 年)
中身下田・箱館の開港、給水給炭貿易の開始、開港場の追加、領事裁判権

ペリーが扉をこじ開け、ハリスが中に入って机に着いた、という順番です。黒船来航から通商条約まで、五年かかっています。

タウンゼント・ハリスの教育者としての前半生

日本に来る前のハリスは、外交官ではありません。

彼はニューヨークの陶磁器商で、独学の人でした。そしてニューヨーク市の教育委員会の議長を務めた際、授業料を取らない高等教育機関の設立に力を尽くします。1847 年に開かれたフリー・アカデミーがそれで、現在のニューヨーク市立大学シティカレッジにあたります。

アメリカにおける公立高等教育の出発点の一つに、この人が関わっているわけです。ニューヨーク市クイーンズには、いまも彼の名を冠した公立高校があります。

その後、彼は貿易のためアジアへ渡り、1854 年に寧波(中国)の領事となりました。ペリー艦隊への同行を志願して断られたという話も伝わっています。

タウンゼント・ハリスの下田・玉泉寺での二年

安政 3 年 7 月 21 日(1856 年 8 月 21 日)、ハリスは下田に着任し、玉泉寺を領事館としました。

条件は良くありません。幕府は総領事の駐在そのものを歓迎しておらず、江戸へ行かせまいとします。通訳のヒュースケンと少数の使用人以外に、話し相手すらいない土地です。

それでもハリスは動きませんでした。そして安政 4 年 10 月 21 日(1857 年 12 月 7 日)、ついに江戸城に登り、十三代将軍徳川家定に謁見して大統領の親書を渡します。

彼が幕府に説いた理屈は、「アヘン戦争を見ろ」というものでした。イギリスやフランスは武力で来る。その前にアメリカと穏当な条約を結んでおいたほうがいい。 堀田正睦ら幕閣は、この論に動かされていきます。

そして安政 5 年 6 月 19 日(1858 年 7 月 29 日)、日米修好通商条約が調印されました。調印を決断したのは大老井伊直弼で、天皇の勅許を得ないままの調印が、その後の政局を裂いていきます。

タウンゼント・ハリスと唐人お吉の話はどこまで本当か

ハリスといえば唐人お吉、という連想があります。下田の芸妓・斎藤きちがハリスの妾になった、という話です。

しかし、史実として確認できる範囲は、これよりずっと狭い。きちは病んだハリスの看護のために幕府側から差し向けられ、短期間で暇を出されています。

ハリスは生涯独身で、子はいません。 妾をめぐる話は、後年の小説・戯曲・映画で大きく育ったもので、同時代の記録に裏づけられた関係ではないと考えられています。

タウンゼント・ハリスの最期と墓

安政 6 年(1859 年)、ハリスは公使に昇格し、江戸麻布の善福寺に公使館を置きました。

しかし攘夷の風は強まる一方でした。1861 年 1 月、通訳のヒュースケンが江戸で斬られます。 各国公使が江戸を引き揚げるなか、ハリスは残りました。

文久 2 年(1862 年)、健康の悪化もあって離任し、帰国します。滞在は五年半あまりでした。

1878 年 2 月 25 日、ニューヨークで没。満 73 歳。 墓はブルックリンのグリーンウッド墓地にあり、日本から贈られた石灯籠が置かれ、桜が植えられています。 独身のまま生涯を終えたため、直系の子孫はいません。

タウンゼント・ハリスの年表

出来事
1804 年 10 月 3 日ニューヨーク州に生まれる
1846 年ニューヨーク市教育委員会の議長を務める
1847 年授業料無償のフリー・アカデミー(現・シティカレッジ)が開校
1849 年貿易のためアジアへ渡る
1854 年寧波領事に任命される
1856 年 8 月 21 日初代駐日総領事として下田に着任(安政 3 年 7 月 21 日)。玉泉寺を領事館とする
1857 年 12 月 7 日江戸城で徳川家定に謁見(安政 4 年 10 月 21 日)
1858 年 7 月 29 日日米修好通商条約に調印(安政 5 年 6 月 19 日)
1859 年公使に昇格。江戸善福寺に公使館を置く
1861 年 1 月通訳ヒュースケンが江戸で殺害される
1862 年離任して帰国
1878 年 2 月 25 日ニューヨークで没。満 73 歳

先に来た軍人はペリー、交渉相手となった幕閣は堀田正睦井伊直弼、その後の外交を担った外国人にはアーネスト・サトウがいます。

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