アーネスト・サトウとは?幕末を見た英国外交官の生涯と子孫

幕末の日本を、内側から見て記録した外国人がいます。アーネスト・サトウ。イギリスの外交官です。
目次
アーネスト・サトウとは何をした人か
サトウの役割は、三つあります。
第一に、通訳として。 日本語を高い水準で習得し、イギリス公使館の交渉の最前線に立ちました。
第二に、論者として。 『英国策論』と呼ばれる文章が日本語に訳されて広まり、幕末の政局に実際の影響を与えました。
第三に、記録者として。 後年に回想録を著し、幕末を目撃した外国人の一次記録として今日まで読まれています。
1843 年、ロンドンの生まれです。
「サトウ」は日本名ではない
まず誤解の多い点から。Satow という姓は、日本の「佐藤」とは無関係です。
彼の父はドイツ系(より細かくはソルブ系ドイツ人)で、姓はヨーロッパのものです。生地のヴィスマールが当時スウェーデンの支配下にあったため「スウェーデン出身」と紹介されることもありますが、出自はドイツ系です。日本で活動したから日本風の名を名乗ったわけではありません。
日本人からすれば親しみやすい名であったことは確かで、それが彼の活動を助けた面はあったでしょう。
19 歳で来日する
サトウは若くして日本行きを志し、通訳生として文久 2 年(1862 年)に来日します。19 歳でした。
当時、日本語ができる西洋人はほとんどいません。条約は結ばれても、意思疎通の手段がなかったのです。オランダ語や中国語を介した間接的なやりとりが常でした。
サトウは日本語の習得に打ち込み、話し、読み、書くところまで到達します。これにより、彼はイギリス公使館にとって不可欠の存在になりました。
言葉ができるという一点で、20 代の若者が国家間の交渉の中心に入ったわけです。
『英国策論』の影響
慶応 2 年(1866 年)、サトウは横浜の英字新聞に日本の政治情勢についての論説を寄せます。
これが日本語に訳され、『英国策論』として広く読まれました。
主張の骨子は、将軍は日本の主権者ではなく、諸侯の一人にすぎない。天皇のもとで有力な藩が連合する体制が現実的であるというものでした。
この文章が、倒幕を目指す側に理論的な後押しを与えたとされます。外国人の書いたものが、日本の政治の議論に組み込まれたのです。
ただし注意すべき点があります。これはイギリス政府の公式見解ではなく、サトウ個人の見解でした。それが「英国の策」として受け取られたところに、当時の情報環境の特徴があります。
誰と会っていたか
サトウは、幕府側とも倒幕側とも接触しました。
西郷隆盛、木戸孝允、勝海舟、徳川慶喜。幕末の主要人物の多くと直接会っています。
そして彼はそれを記録しました。日本側の記録が失われたり、後から書き換えられたりしたものについて、サトウの記述が参照されることがあります。外部の目による同時代の観察という価値です。
回想録『一外交官の見た明治維新』は、幕末を知るための基本文献の一つとされています。
その後の経歴
明治になってからも、サトウは日本と関わり続けました。
一時日本を離れたのち、明治 28 年(1895 年)に駐日公使として戻ります。かつて通訳生として来た青年が、公使としてイギリスを代表する立場になったわけです。
その後は清国駐在の公使も務め、外交官として長いキャリアを終えました。日本の植物や歴史についての研究も残しています。
1929 年、イギリスで死去。満 86 歳でした。
アーネスト・サトウの子孫
サトウについて検索されるときに多いのが、子孫です。
彼は日本滞在中、日本人女性の武田兼と家庭を持ちました。正式な婚姻ではありませんでしたが、二人の間には子が生まれています。
次男の武田久吉は植物学者となり、日本の山岳研究と自然保護の分野で知られる人物になりました。日本山岳会の設立に関わり、高山植物の研究で業績を残しています。
外交官の子が、日本の山の研究者になった。 サトウの日本との関わりは、血筋としても続いたことになります。
なお、サトウは日本を離れる際に家族を伴いませんでした。この選択については、当時の外交官の立場と、国際結婚をめぐる制度上の制約が背景にあります。
アーネスト・サトウの年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1843 年 | ロンドンに生まれる |
| 1862 年 | 通訳生として来日。19 歳 |
| 1866 年 | 論説を発表。日本語訳『英国策論』が広まる |
| 1860 年代 | 幕府側・倒幕側の双方と接触し、交渉にあたる |
| 1895 年 | 駐日公使として日本に戻る |
| 1900 年代 | 駐清公使を務める |
| 1929 年 | イギリスで死去。満 86 歳 |
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