幕末の偉人

堀田正睦とは?勅許を拒まれ幕府の権威を崩した老中の生涯

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堀田正睦とは?勅許を拒まれ幕府の権威を崩した老中の生涯

幕府が「自分だけでは決められない」と世間に知られた瞬間があります。堀田正睦が京都から手ぶらで帰ってきた日です。

目次

堀田正睦とは何をした人か

正睦は、下総佐倉藩の藩主であり、江戸幕府の老中首座です。読みは「ほった まさよし」。

その仕事は三つあります。

第一に、蘭学を藩の柱にしたこと。 佐倉に西洋医学と蘭学を根づかせ、「西の長崎、東の佐倉」と言われるまでにしました。

第二に、阿部正弘の後を継いで外交を担ったこと。 全権委員を任命して日米修好通商条約の交渉を進めさせ、その方針を決めました。

第三に、条約の勅許を朝廷に拒まれたこと。 これが、幕府の権威が崩れる決定的な出来事になりました。

文化 7 年(1810 年)に生まれ、元治元年(1864 年)に没しています。

堀田正睦が佐倉に蘭学を植えた理由

正睦は佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の藩主です。

彼は蘭学と西洋医学を藩として奨励しました。蘭方医の佐藤泰然を招き、佐倉に順天堂を開かせています。これが現在の順天堂大学の源流です。

当時、西洋医学は幕府の中枢では警戒の対象でした。それを藩の政策として掲げ、実際に医師と学生を集めた点で、佐倉は例外的な藩でした。

「西の長崎、東の佐倉」——長崎と並ぶ蘭学の地という評価が、この時期に生まれます。

正睦の開国論は、思想から来たものではありません。西洋の医学と技術を実際に見て、その水準を知ったところから来ています。

堀田正睦が阿部正弘のあとを継ぐ

安政 2 年(1855 年)、正睦は老中首座となります。

前任は阿部正弘です。阿部は黒船来航に対処し、日米和親条約を結んだ人物ですが、その和親条約には通商——貿易の取り決めが含まれていませんでした。

そこを詰めるのが、正睦の仕事になります。

安政 3 年(1856 年)、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが下田に着任しました。彼の要求は明確でした。通商条約を結べ、と。

堀田正睦とタウンゼント・ハリスの交渉

交渉は難しいものでした。

ハリスの論法は、こうです。イギリスとフランスは清と戦争をして、力で港を開かせた。日本も同じ運命をたどる。それより、まだ穏やかなアメリカと先に条約を結んだほうが有利だ、と。

これは脅しでもあり、同時に事実でもありました。

正睦は交渉に踏み切ります。ただし、ハリスと実際に机を挟んだのは正睦ではありません。彼が全権委員に任命した井上清直と岩瀬忠震が交渉に当たり、条文を確定させました。関税、開港地、外国人の居住、そして領事裁判権——外国人を日本の法で裁けないという条項も入ります。

不平等条約です。ただし、この時点で日本に対等な条約を結ぶ力はありませんでした。正睦は「結ばない」選択が可能だと考えていなかったのです。

堀田正睦はなぜ京都で勅許を拒まれたのか

ここで正睦は、幕府の歴史上ほとんど前例のないことをします。

条約に朝廷の許可——勅許を得ようとしたのです。

理由は正睦の弱さではなく、状況の変化です。阿部正弘が諸大名に意見を諮って以来、国政は幕府だけの決定事項ではなくなっていました。反対する諸藩を抑えるには、天皇の裁可という後ろ盾が必要だと判断したのです。

安政 5 年(1858 年)、正睦は自ら京都へ上りました。老中首座が上洛して勅許を求めるという、異例の行動です。

そして拒まれました。

孝明天皇は攘夷の立場を採り、条約を認めませんでした。幕府の最高責任者が、天皇に「否」と言われて江戸へ帰ったわけです。

堀田正睦の失敗が幕府に残したもの

正睦の上洛は、幕府にとって二重の損失でした。

第一に、条約が承認されなかった。 目的を達していません。

第二に、そして重大なのは、「幕府は朝廷の許可を必要とする」と自ら証明してしまったことです。

それまで、外交は幕府の専権でした。正睦が勅許を求めた時点で、「朝廷の同意がなければ幕府の決定は正統でない」という理屈が成立してしまったのです。

尊王攘夷の運動は、ここから一気に力を得ます。幕府に反対したい者は、以後「朝廷はこう言っている」と言えるようになりました。

堀田正睦の罷免

正睦が京都から戻った直後、井伊直弼が大老となります。

井伊の判断は速く、乱暴でした。勅許を待たずに調印させたのです。安政 5 年 6 月(西暦では 1858 年 7 月)、井上清直と岩瀬忠震がハリスと調印しました。

そして正睦は罷免されます。条約をまとめた当人が、条約の調印から外されたことになります。

その後始まった安政の大獄では、正睦は処罰する側にも回されていません。幕政から完全に外されました。

堀田正睦の最期

文久 2 年(1862 年)に隠居し、元治元年(1864 年)に没しました。満 53 歳です。

開国は彼の主張どおりに進み、そして幕府は彼が開けた穴から崩れていきました。

堀田正睦の年表

出来事
1810 年生まれる
1840 年代佐藤泰然を招き、佐倉に順天堂を開かせる。蘭学を藩の柱にする
1855 年阿部正弘に代わり老中首座となる
1856 年アメリカ総領事ハリスが下田に着任
1858 年自ら京都へ上り、条約の勅許を求めて拒まれる
1858 年 7 月井伊直弼が勅許なしの調印を決断(署名は井上清直・岩瀬忠震)。正睦は罷免される
1862 年隠居
1864 年没。満 53 歳

前任の老中首座は阿部正弘、後任の実権者は井伊直弼、その後の弾圧は安政の大獄で扱っています。

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